付録映像  スービック海軍基地/クラーク空軍基地基地跡の汚染ピープル・パワースモーキーマウンテン先住民地図

@ ありし日のスービック海軍基地(Subic Naval Base)(左)と、クラーク空軍基地(Clark Air Base)(右)

 
http://www.ussmullinnix.org/libertycallOlongapoCity72.html             http://www.clarkab.org/photos/a12.htm

スービック、クラーク基地返還の顛末:      フィリピン・ツアー先頭に戻る

1989.12.01最大規模の国軍反乱。米国はアキノ政権支援を表明、米空軍機を反乱軍牽制に投入。

1990.11.16 米基地交渉で大筋合意。
1991.06.09 ピナツボ山大噴火、クラーク、スービック両基地使用不能に。
1991.08.27 米比友好協力防衛条約調印。クラーク基地返還、スービック基地使用10年延長で合意。09.16. フィリピン上院、批准拒否。
1991.11.26 クラーク米空軍基地返還。
1992.05.01 ラモス、接戦の末、大統領当選。
1992.09.30 スービック米海軍基地返還。                 ⇒引用元サイト

 フィリピンは政府が基地協定の継続をアメリカ合衆国に対して約束していた(条約に調印していた)にもかかわらず、議会がこれを拒否し(批准を拒否)、1991年に米比基地協定を終了させた。91年のピナツボ火山の噴火が基地返還に拍車をかけたと言われる―アメリカ合衆国は火山噴火の被害を受けた基地を復旧させるより返還を急いだというわけだろうか。92年には、米軍は全面的に撤退し、広大なクラーク空軍基地やスービック海軍基地が返還された。アメリカは返還の際、原状回復の義務はないとした。そのため、上記両基地周辺では、深刻な汚染被害が発生している(下)。
 92年の11月にはピナツボ火山の状態が予測できないため、米軍には撤退勧告が出されたが、それは基地協定の期日満了の日と重なっていたという。このあたりが、ごちゃごちゃしてよく分からない話なのだが、

@ 議会がNOと言ったために、フィリピンは米軍基地を民主的に追い出したのだ、という物語と、
A 火山噴火で基地が使用不能になり、その後も危険なので一時的に撤退する必要が生じたところにフィリピン議会の条約批准拒否問題が持ち上がり、米国としてはこれを不服として争うこともできたが、米国の戦略として基地撤退を決めた、という物語

がありそうだ。両方の要因が作用したのだろうとは思うが、アメリカ合衆国軍としては火山対策など経費の問題、沖縄やグアム、サイパンなどとの兼ね合い、冷戦終了でアメリカ合衆国議会に軍事予算拡大の名目が立たないこと、等々が複合的に作用した結果なのだろう。しかし、フィリピンはイスラム教分離運動も、共産主義運動も抱える、火種に事欠かない地域であり、”歴史的”に”当然”アメリカ合衆国の支配下にあるという認識がアメリカ合衆国にはあるから、1999年に訪問米軍地位協定(VFA)を批准し米軍再駐留への道を開いておく必要があったのだろう。

 フィリピン大学教授、ローランド・シンブランは、VFAの性格を次のように要約している。

この地位協定は、1991年にフィリピン上院によって退けられた友好協力安全保障条約の条項をはじめとする、以前の各種基地協定よりもさらに悪質なものである。以下、地位協定の突出した特徴について述べてみよう。

1. フィリピン領土に入域するすべての合衆国軍隊の構成員(以下、米軍の構成員)は、犯罪の遂行時にその構成員が公務中であるか、もしくは米軍司令官により正式公務証書(ODC)の発行を受けているかぎり、実際上フィリピン領土における犯罪についての刑事訴訟から保護される。

2. 公務についていない間およびフィリピン裁判所の管轄権の下において米軍の構成員によって遂行された凶悪犯罪を含むすべての犯罪に関しては、裁判中およびすべての訴訟手続き中の米軍の構成員の身柄は、米軍当局が拘束する。

3. 米軍の構成員は、米軍のための輸入および装置その他の財産を現地で取得する場合は、ほとんど全体的かつ全面的な免税措置を与えられる。

4. フィリピン領土を出入する米軍航空機、船舶および自動車は、着・上陸または港湾手数料、航行または上空通過料金の支払を免除される。

5. この協定は、核兵器の制約なしの入域を許し、フィリピン憲法上の核兵器禁止を事実上解除するものである。なぜなら、核武装および核搭載能力を有する米国船舶と航空機は、フィリピン当局にたいし、フィリピン領土へ核兵器を持込んでいるか否かを証明する公式文書なしで、たんに到着を通告すればよいとの義務を負うにすぎないからである。地位協定のとりきめは、このことについて沈黙することによって、憲法が核兵器を禁止していることをまったく無視している。
      
 
以上、 http://www10.plala.or.jp/antiatom/html/j/jpub/j-joho10b.htmより
シンブラン教授によるVFAの問題点指摘をもっと読む ⇒VFA全文(日文訳)を読む   

 

A最後の米兵がフィリピンを去ってから13年、基地の汚染物質によって子供たちに被害が出ているが、誰がどのように責任をとるのか不明。
  (http://www.pcij.org/imag/Black&White/toxicwaste.html)

John Rafael David ちゃん、撮影時2歳。母親、スーザンは1991年のピナツボ火山噴火により元クラーク基地のあった土地に避難。スーザンさんによると、一家は基地の中の井戸水を飲んでいたが、その水は「変な匂いがして表面が油っぽかった」という。 Micha Mesiano ちゃんは脳性麻痺。撮影時、3歳。母親エイミーさん、当時40歳は元スービック海軍基地で働いていたが、現在は縫製工場勤務。父親、ウィルフレドさんは同基地の修理部門に電気技師として勤務していたが「アスベスト汚染に対して何の保護もない状態」だったという。 Sheila Pinedaちゃん (左) と Syva Tolentino (右)ちゃんは、二人とも撮影時に4歳。慢性の心臓病でバイパス手術を受けた。二人とも元クラーク基地で生まれた。

2006/08/02追記  フィリピン・ツアー先頭に戻る
 2001年のコラソン・ファブロスさんの発表によると、2000年8月18日、クラークおよびスービックの旧米軍基地周辺地域に住む有毒物汚染の被害者とその家族は、米国政府を主要な相手としてフィリピン裁判所に賠償請求裁判を起こした。アメリカの国防総省にはERPOという計画があり、「国防省は特定の汚染除去要件および必要な場合の実際の汚染除去作業の実施に責任がある」としているが、アメリカ政府は、環境法順守において、二重基準や環境的人種差別を適用している。アメリカは、フィリピン、パナマ、プエルトリコなどの途上国における環境保護・安全基準を守っていないが、1998年12月28日のニューヨーク・タイムズの論説によれば、アメリカは「ドイツやカナダなど重要な同盟国の基地では、危険な廃棄物を撤去するか、その費用を負担して」いるのです。1998年だけをみても、アメリカ政府はアメリカ国内にある基地の汚染除去に21億3,000万ドルを費やしている。既存基地を含むこれまでの海外基地の汚染除去に関するデータは、フィリピンは、アジア・太平洋地域におけるアメリカの重要な同盟国であるにもかかわらず、アメリカの配慮の対象であったことは一度もなかったことを示している・・・と彼女は書いている。
 また彼女は、
過去数年間、非核フィリピン連合や、基地汚染除去人民部隊などフィリピンのNGOやアメリカの連帯組織は、アメリカにたいし毒物汚染の責任をとるように求めていますが、アメリカは汚染問題があることを認めることさえ拒否している と続け、再びアメリカがフィリピンをその軍事覇権体制に組み込もうとしている点を批判する。
 また、別のサイト2004年の記述)によると、
ピナツボ火山が噴火したとき、麓の住民の約8万人が返還されたクラーク空港の返還跡地につくられた避難センターに移住。そこで井戸を掘り、7〜8年の間、そこで生活をしていた被災者もいる。ここでの井戸水を飲んだ母親から生まれた子どものなかに、脳性まひのような症状の示す被害者がたくさん出ている。あるいは、スービック海軍基地の跡地では、下流の河川で洗濯をしていた人に皮膚病など出ている。それらの原因として、米軍が撤退したときに放置していった弾薬庫跡地や基地内での各種有害廃棄物処分地などからの化学物質によって井戸水や河川水の汚染が進行していたことが関係していると見られている。と解説されている。

B1986年のピープル・パワー革命(別名EDSA革命) 1986:The People Power Revolution of the Philippines  フィリピン・プロジェクト先頭に戻る


http://members.optusnet.com.au/~luis06/edsa2.htm

今でも世界中で”神話的”に語られるフィリピンのPeople Power―それは武力によらず権力に打ち勝とうとする理想の実現形として語られる。市民的抵抗の一つのモデルだ。1986年当時、この運動に参加して勝利を勝ち取った人々は、現在のフィリピンについて、どんな気持ちをもち、どんな方向で未来を考えているんだろうか。

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Ferdinand Marcos

Corazon “Cory” Aquino

Benigno “Ninoy” Aquino

C Smoky Mountain, Manila スモーキーマウンテンとは忘れられた子供たち ~スカベンジャー~スモーキーマウンテンの人々 パヤタス パヤタス(参考サイト)パヤタス資料集(参考サイト)パヤタスに住む人々(参考サイト)

 ラモス大統領時代に、ここはマニラの恥部とされ、再開発の対象になった。今はさら地になったが、マニラが吐き出す、行き場を失った大量のごみは、ケソン市の近くにまた同じような第二のスモーキーマウンテンをつくってしまった。(現在そのパヤタスゴミ捨て場はスモーキーバレーと呼ばれている) かつてのアジア最大のスラムと言われた場所に住んでいた人々はどこへ行ったのか?フィリピンの国内格差が生み出す貧困層の象徴的な映像と言えるかもしれない。


http://www.bohemianscafe.com/Phi/3.htm
Smoky Mountain, Manila 1997

http://www.bohemianscafe.com/Phi/5.htm
Smoky Mountain, Manila 1997

Dフィリピンの先住民    ⇒アジアにおける先住民族(フィリピンの例)     フィリピン・ツアー先頭に戻る
 フィリピン諸島の山間部には、世界でもっとも貧しいといわれる400万から600万人の人々が住んでいると言われる。台湾原住民が約30万人と言われるから、その10倍と考えたらいいかもしれない。


http://www.kurose.com/jp/files/list/000052.html

E 地図 ⇒フィリピンの地図(各都市を中心に網羅してます、ネットのフィリピン地図の中では一番よかった。) ⇒Philippin Map Online(Not Bad!)

F 財閥(書きかけです)

 マゼラン到着に始まったスペイン統治時代に出来た20の財閥が、米国支配を経て今日に至り、政変と共にそれぞれの盛衰はあれど、国民経済を動かし、政治を動かしている原動力となっている。
 財閥は大別して、マルコス取り巻きグループとそれ以外のグループに二分される。マルコス取り巻きグループも「エドサ革命以後、崩壊したグループ(名前は挙げない)」と、「マルコスと共に逃亡したグループ」が有る。ロペス財閥やルシオ・タンがそれらである。それらはアキノ大統領退任の後、勇躍復活を果たし、いまや以前にも増して大勢力となっている。現在フィリピンを動かしている財閥は、前述、それ以外のグループ、コファンコ、コンセプシオン、アヤラ、ソリアノ、ゴーコンウェイ、ユーチェンコ、タン・ユー、ヘンリーシーである。勿論、ルシオ・タン、ロペスも加わっている。⇒出典サイト

ロペス・グループ⇒First Philippine Holdings Corporation(財閥の中核企業)Lopes Sugar Co.
ルシオ・タン(陳永栽)グループ ⇒フィリピン航空の70%を所有
ゴーコンウェイ(呉奕輝)グループ
ユーチェンコ(楊應琳)グループ
ジョージ・ティー(鄭少堅)グループ

⇒(本)徹底検証 アジア華人企業グループの実力 ダイヤモンド社、2000年

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アジア開発銀行のこと

 キャットさんからADBに話を聞きに行ってはどうかという提案がありました。ADBについてちょっと書いておきます。

 ADB(Asian Development Bank、アジア開発銀行)は1966年に国連の地域委員会の一つであるアジア太平洋経済社会委員会(Economic and Social Commission for Asia and the Pacific…通称ESCAP)によって作られたもので、世銀世界銀行、1944年、ブレント・ウッズ会議から生まれた銀行グループで、中心は国際復興開発銀行と国際開発協会)のアジア版といったところでしょうか。歴代の総裁はすべて日本人というところを見ても、ADBにおける日本(銀行)の支配力が分かります。もっとも出資率では日本とアメリカ合衆国が同じ15.7%で出資国66ヶ国中最大ですから、日本とアメリカ合衆国の支配下にある、という方が正確でしょうか。本部はマニラ。

ADBの主な機能は、(1)開発途上加盟国に対する資金の貸付・株式投資、(2)開発プロジェクト・開発プログラムの準備・執行のための技術支援及び助言業務、(3)開発目的のための公的・民間支援の促進、(4)開発途上加盟国の開発政策調整支援等、である(外務省ホームページより引用[1])。開発途上国に対する融資と技術援助は、主に社会基盤(教育・医療等)、運輸・通信、エネルギー、農業・天然資源、鉱工業、金融等のプロジェクトに供与され、毎年およそ60億ドルの融資額、1.8億ドルが技術支援に使われる(2005年には65件のプロジェクトに52.6億ドルが融資され、49.5億ドルだった2004年より6%増加)。(Wikipediaより

 ADBが途上国において融資する大型開発プロジェクトは(日本のODA同様に)アジア各国のエリート層以外には何かと評判が悪い。

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