台湾―原発、廃棄物、環境運動史(改定中) 台湾の原子力関連施設地図年表記事「原発の黒幕を見直す」台湾原発事故一覧2010.10.20更新

第1原子力発電所 
石門郷乾華(金山)
第2原子力発電所 
萬里郷国聖
第3原子力発電所 
恒春郷南湾(馬鞍山)
第4原子力発電所 
貢寮郷塩寮(龍門)
第5原子力発電所 
台西郷(雲林)
原 子 炉 沸騰水型 636万KW・2基 沸騰水型 985万KW・2基 加圧水型 951万KW・2基

改良型沸騰水型(ABWR)
135 万kw・2 基

炉の購入先 ジェネラル・エレクトリック(GE) GE WH/GE GE⇒東芝(2号機)、日立(1号機)、石川島播磨重工業
発電機の購入先 ウエスティングハウス(WH) WH GE/WH 三菱重工(MHI)
建設開始時期 1971(1号炉)/1972(2号炉) 1974 1978
商業運転の開始時期 1978(1号炉)/1979(2号炉) 1981(1号炉)/1983(2号炉) 1984(1号炉)/1985(2号炉) 2006-2007(予定)
建設予算 127億元 220億元 358億元 1697億元⇒1887億5000万元(99年)
⇒2335億元(06年)
実際の建設費 296億元 630億元 974億元
炉の数/現在
炉の数/最終計画
その他 土木工事は清水建設(GEの下請け)


第一(金山)原子力発電所



第二(国聖)原子力発電所



第三(馬鞍山)原子力発電所



第四(龍門)発電所建設サイト
地図
年表  青字はサイト外リンク
1955 6月行政院に原子力委員会が設置され、台湾電力に原子力研究委員会が発足。
1955-56 台湾政府はアメリカとの間に「中米原子力平和利用協定」を締結し、原子力の技術を輸入し始めた。(田中宇
清華大学を新設し、原子力科学研究所が設置される。
1964 十大建設の一つとして原発建設が決定される。台湾政府は原子力発電を将来的に電力供給の根幹に据えることを宣言。
1966 塩寮に原発建設計画が持ち上がる。
1969 石門第一原発工事開始(⇒1978年に運転開始)。
1970 国際原子力機関(IAEA)は核兵器がこれ以上世界に広まることを防止する国際条約(核拡散防止条約・NPT)を加盟国間で結んだ。IAEAには台湾も条約を批准している。
1971 台湾国連脱退、中国加盟。台湾政府はアメリカ合衆国との関係維持のため、原発購入計画を足早に推進。(外交政策の一部となった原発建設)
1974 万里郷で第二原発の建設が開始される。
行政院原子力委員会は「蘭嶼計画技術委員会」を結成して放射性廃棄物貯蔵場の計画を始める。
1975 第四原発の話が再び塩寮に持ち上がる。
1978 石門第一原発運転開始。恒春郷に第三原発建設が始まる。
10月、第一原発から気体の放射能が漏れだし、アメリカの会社が応急修理して改善されるまで1ケ月かかった。
1979 アメリカ・スリーマイル島原発事故―以後、アメリカ合衆国の原子力発電所関連企業は、国内に市場を見出せなくなり、海外への売り込みを強化する。
ベクテル社が台湾への原発プラント輸出を引き受け、ベクテル社は台湾の大手建設業者「中興工程社」との合弁(ベクテル社が6割、中興工程社が4割)で「泰興工程社」を創業。中興工程社代表は蒋経国総統の三男、蒋孝勇。台湾の原子力開発は70年代からアメリカ合衆国企業への依存を強めていき、GE、ウェスティングハウス(WH)、ベクテルなどの米国企業の決定に異議をはさむことができなくなり、原発関連予算は雪だるま式に増加の一歩を辿る。
台湾には今のところ、原子力発電所の部品を作る技術はなく、部品は全てアメリカからの輸入に頼っているが、その価格は国際市場の価格よりはるかに高い。原発を設計するアメリカの技師は建設現場を十分に下見せず、台湾側から提出された資料を基に設計するため、実際に建設してみるとうまく行かず、設計図の引き直しや部品が無駄になることが相次ぐ。その結果、建設にかかる実際の費用は、最終的には政府が立てた予算の2~3倍にもなってしまう。
 原発は外債を発行して買うが、この外債はアメリカの輸出入銀行がまとめて買い、利息はかなり高い。借りた金は原発が運転を開始し、電力料金が入り始めてから返すことになっているが、この間の利息は台湾電力ではなく政府が支払う
 この方法で輸出入銀行は台湾政府に、原発を買うための金を81年までに12億ドル以上も貸した。これは輸出入銀行の全貸付高の5.7%に当り、最も大口の貸付先である。台湾は対米貿易の黒字から、原発を買う位のドルを持っていたにもかかわらず、アメリカへのリップサービスから輸出入銀行から借りることにしたのだった。
 台湾の原発の電力コストは火力、水力より安いという調査結果が出ているが、コスト計算の中にはこの利息は入っていない。ちなみに核廃棄物処理のコストも入っていない
 台湾電力はさらに、島の西海岸中部の雲林県台西郷に第5原子力発電所を作り、西暦2000年までに第1、第2発電所に4基、第3、第4、第5発電所には6基の原子炉を設け、台湾島内に合わせて26基の原子炉を建てる計画を持っているが、第4原発の計画が進まないため、第5原発や他の原発の原子炉の増設は手付かずのままである。(以上、田中宇より)
1980 原子力委員会と台湾電力は、蘭嶼に「魚缶詰工場」(核廃棄物貯蔵所)を建設開始。
5月第四原発の申請
8月19日、第一原発の冷却水取水口が海上を漂うゴミで塞がれる。循環ポンプの入口の網と集水器の水槽が詰まり、冷却水の供給が止まる。
8月27日、第一原発の冷却水取水口が再びゴミで塞がれ、低圧タービンの保護膜が破れる
1981 国聖第二原発運転開始(金山:台北県萬里郷野柳村八斗60号)
第四原発の第一回入札がなされる。(フランスのフラマトム社が最も安い価格を入札したにもかかわらず、最終的にはフラトム社の2倍近い価格を入札したアメリカの「燃焼工程社」(GE?元名不詳・・要チェック)が落札。)
10月第四原発サイトが台北県貢寮郷に決定される。
1982 蘭嶼島への貯蔵開始
1月7日、第1原発の作業員1人(欧萬居)が原子炉を修理中に転落してけがをし、大量の放射能を浴びて3日後に死亡。
3月、第1原発の放射性廃棄物が石門郷のゴミ捨て場に捨てられ、放射能汚染されているのが見つかった。
11月、原子力委員会から蘭嶼郷町役場の新庁舎建設費として3千万元が支払われ、翌83年には蘭嶼保健所に50万元の医療機器が提供された
1984 南湾第三原発運転開始
政府は台北県貢寮郷塩寮に第四原子力発電所を作る計画を提出(当時の計画では1993-4に完成予定)。
4月広東省大亜湾原子力発電所着工。台湾電力の元幹部2人が”技術指導”として香港経由で参入。原子炉2基をフランスのフラマトム社から買い、発電機はWH社とイギリスの会社に発注。
6月、放射性廃棄物を積んだ船と漁船が金山港の外洋で接触し、廃棄物を入れたドラム缶が海に落ちる事故発生(第二原発から出た低レベル廃棄物を、蘭嶼島に運ぶ途中)
8月、第1原発の飲料水製造機にセシウム137が投げ込まれ、7人が被爆。
10月、第3原発で雇われた3人の作業員が冷却水の排水口で潜水して清掃した後、次々と発病して原因不明のまま数日間で全員が死亡。
1985 4月、立法院で第四原発の予算案が提出され審議される。
5月第四原発建設延期が決定される(同年の台湾国家予算の半分以上、1800億元という巨額だったため)。
7月7日、第三原発一号炉でGE社の設計ミスによる大火災で70億元以上の大損害(台湾政府はGE社に対して賠償請求を切り出すことさえできなかったほど、アメリカ合衆国企業に依存していた)当初、台湾電力は「事故の原因は電気系統の故障であり、放射能に関係した部分は問題がない」と強調していた。しかし事故に関する台湾電力とGE社との交渉の後の85年5月「発電機のタービンの設計に重大なミスがあった」と発表し直した。
9~10月、第一原発で連続運転の記録を作るため56日間運転し続けたことが原因で、放射能を大気中に流し続ける事件が起こり、その後長期の運転停止を引き起した。
10月、環境雑誌「新環境」創刊。
11月、社会派の月刊誌、「人間」創刊。
1986 1月、第1原発で放射能が漏れる事故(発電所ぐるみで証拠隠滅)
4月チェルノブイリ原発事故
7月、第三原発排水口付近の海域で大量の珊瑚が白く変色して死んでいるのが発見される。
9月民進党結成
?月鹿港に誘致が予定されていた米・デュポン社の化学工場が「周辺の海や川が廃液で汚される」との住民の反対運動で、建設が中止になる。
?月、社)日本原子力産業協会と台湾原子力委員会との共催による「日台原子力安全セミナー」が開催され、本セミナーはその後毎年開催。(場所は台湾、日本、交替で)
1987 3~4月、「新環境」を発行している新環境雑誌社が台湾で初めての反原発集会を呼びかけ、スリーマイル事故から8周年、チェルノブイリ事故から1周年を記念する集会とデモ行進が、第3原発の恒春と、第4原発予定地の塩寮で開かれた。これが台湾でのでも、集会などによる大衆的な反原発運動の先駆けとなった。
7月14日戒厳令解除
11月、「台湾環境保護連盟」結成 各地域でも反原発団体が相次いで設立される。第2原発周辺の「北海岸反核自救会」や第3原発の恒春周辺の「恒春反核団体」、第4原発予定地、塩寮の「塩寮反核自救会」など。

 87年末の台湾電力の発電所の総容量は1660万キロワットで、そのうち原子力は31%の510万キロワットを占める。水力は15%、火力は54%である。しかし原子力は発電の基礎部分とされているため、電力消費量の少ないときは原子力から使うようにしている。このため87年末の実際の発電量に占める割合は原子力が49%、水力は11%、火力は41%と原子力の割合が多くなっている。(田中宇
1988 2月、ヤミ族の青年団体(「ヤミ族青年聯誼会」)が初めて反対運動を行う(第一回「220駆逐蘭嶼悪霊」千人反核廃棄物運動)
2月、中山科学院原子力研究所の副所長の張憲義博士が同年2月、CIAの協力で台湾からアメリカへ亡命し、台湾の核兵器開発についてCIAに通報。事件の後、核拡散防止条約を批准済みの台湾政府は核兵器の研究、製造について強く否定。
2月、台湾電力の技術者、チャン・ルーイー(如意)が、第一原発の熱交換機の銅細管が、完全に放射能除去されないまま市場に流れていたことを明らかにした。チャン氏の告発は、88年1月に政府の報道規制が解除されたばかりのマスコミを通じて台湾じゅうに知れ渡り、同年3月の金山や台北でのデモや集会など、その後の反原発運動につながった。
3月第3原発で放射性物質(コバルト)の固まり2つが盗まれているのが判明。
4月、第二原発2号機、空気中に放射能漏れ事故。7月、同じ2号機が緊急停止する事故発生(発電所が事故を隠蔽、台湾電力も報告をせず。
4月24日、4つの原発・原発予定地の周辺住民や学生、市民団体のメンバーら約2000人が台北に集まり、台湾電力に対するデモ行進、抗議行動。その後3日間ハンガーストライキもあった。
5月、第二原発1号機の大修理中、放射能の安全防護が不十分で約200人の作業員が放射能汚染。
6月、ヤミ族青年聯誼会は国民党の立法委員ら35人と「蘭嶼労働合作社」を結成。
10月、フィリピンのアキノ政権は、地下に地震を起こす地層があるのが分かって運転しないまま破棄されたバターン原発に関しWH社を相手に、設計ミスの損害賠償を求めることを決めた。
1989  5月行政院原子力委員会が「反核廃棄物」声明(蘭嶼の廃棄物貯蔵庫第二期工事の即時停止/蘭嶼への核廃棄物の運搬停止)
1990 第二回「220駆逐蘭嶼悪霊」千人反核廃棄物運動
イタリア、全原発を閉鎖。
1991 第三回「220駆逐蘭嶼悪霊」千人反核廃棄物運動
1992 2月行政院、第四原発の予算凍結を解除する。
1993 3月、タオ族100人が、立法院と内政部に逐蘭を国立公園化する陳情を行う。
1994 5月、台湾電力元幹部らが技術指導したと言われる広東省大亜湾原子力発電所商業発電開始。
?月貢寮郷で行った建設の是非を問う公民投票では96%が反対、台北県全体では80%が反対。
1995  5月、第四回「220駆逐蘭嶼悪霊」千人反核廃棄物運動
6月、タオ族長老たちが立法院を訪れ反核廃棄物の陳情書を。また、台湾電力へも抗議文を。
1996 5月、野党によってすべての原子力計画への支出停止案が提出され、採択される。
5月台湾電力公司、GE社と建設の主契約(第四原発建設)を結ぶ。
10月与党が支出停止案を覆す(「民進党の裏切り」とも言われる)
1997 東芝と日立は合同して「アジアABWR 輸出機構」を発足。
5月12日、 米原子力規制委員会NRC がABWR を標準型炉として認定。
1998 ?月、スェーデン、脱原子力法を制定。
?月宜蘭縣で「核四」をめぐる県民投票、88%の県民が反対。
1999 3月、原子力委員会は「核四」の建設ライセンス発行、1号機の建設着工。
8月、「核四」2号機着工。
2000 3月、総統選挙において反原発派民進覚の陳水扁、当選。陳水扁総統の総統選公約は、「第4原発計画停止、既存原発は10年以内に廃止」。
5月、「核四」建設続行の是非を問う再評価委員会を設立、工事は暫時停止される。台湾の低レベル廃棄物を朝鮮民主主義人民共和国に送る話が再燃。放射性廃棄物全般及び使用済み燃料のロシアへの搬出の企てが繰り返されており、千島列島の新知島に搬出する話が浮上。日本のブローカーが台湾電力の代理人として動き、台湾政府筋と接触していると噂される。
6月、ドイツが原発全廃を宣言。
9月、台湾電力公司核能後端営運処「ロシアへ搬出するのは低レベルだけ、使用済みは搬出しないと発表。千島輸送にサハリン州知事が反対を表明。ロシアへの核廃棄物搬入について、ロシア各地で反対運動が起きる。
9月30日経済部が「核四」建設中止を求める報告を行政院に提出する。
10月6日、院長「唐飛行政核四」の意見陳水扁総統と対立して辞任、民進党の張俊雄氏行政院長就任
10月27日張俊雄行政院長「核四」建設中止発表、GE社に工事凍結通告(当時事進捗率33.8% )―国民党の大反発 台湾紙による世論調査では反対が賛成を上回る。
11月5日、陳総統がテレビで政治混乱を謝罪.核四の断念決定自体は不変と明言。
11月7日、総統と副総統罷免の手続き法案を可決。
11月12日、核四建設断念支持、総統罷免手続きに抗議。台湾各地(高雄・花蓮・台北)で10 万人。
2001 1月17日、大法官会議(憲法裁判所)で行政院の決定は手続き上不備と宣告。
1月31日立法院で建設継続の決議(賛成137対反対70)、行政院は決議を拒否、与野党全面的に対決する。
2月 5日、陳水扁総統、政治、経済面での危機を回避するため「核四」続行を決断
2月15日、台湾行政院、立法院は「核四復工協議書」に署名し、「核四」建設続行が決定される。塩寮反核自救会:「反核自救会声明以最有力的選票懲罰背叛者」「一旦核四続建将向民進党全面宣戦」「不惜流血抗議」
2月24日、台湾全土で3 万人が抗議デモ。
7月、 「核四公投」と関連した「住民投票法案」、立法院にて野党の反対で未成立。
2002 2月15日、アメリカ合衆国エネルギー省、2010年までに新規原子力発電所を建設、運転を開始することを目的とした「原子力2010(Nuclear Power 2010)」プログラムを発表。原子力利用の拡大を謳う。
8月 3日、陳水扁総統、「国民投票で台湾の将来を決める」と発言。アメリカ合衆国政府は激怒、以後、台湾押さえ込み/陳総統引き降しの圧力を強化。
9月27日~10月2日、「第10回No nukes asia forum 」台北で開催、日本から多数出席。
2003 5月「非核国家(脱原子力)推進法草案」が行政院で閣議了解された―法案は全22条からなり、新規原子力発電所の建設中止だけではなく、現在運転中の6基の原子力発電所についても繰り上げて運転停止をし、「全ての原子力発電所を停止する」というもの。第一原子力発電所は2011年に、第二原子力発電所は2014年に、第三原子力発電所は2017年にそれぞれ繰り上げて全面停止することを盛り込んだ。(⇒結局、法案は成立せず
6月20日日立の原子炉圧力容器、呉港から積み出し(6月13日)、貢寮「核四」サイトに搬入。
6月22日、アメリカ合衆国が「核四公投はしないほうがいい」といったと報道され、国民党と親民党の党首も「アメリカは台湾の内政に干渉するな」と反発。
6月27日、全国非核家園大会(A Nuclear Free Homeland )台北で開催、陳水扁総統「核四公投」を宣言する
7月 4日、台北で「核四公投」支持デモ。
7月14日、陳水扁総統が「総統選の投票日に公民投票を同時に実施する」と宣言。国民投票の議題は、国会改造・WHO加入・第四原発
9月~、 「公投法」立法院で審議される。
11月27日、台湾立法院、住民投票法案を可決。中国は「独立につながる」として強く反発。
2004 3月20日、総統選と同時実施の公民投票(住民投票)は投票率が50%を超えず無効
3月23日、台湾総統選は投票の再集計を要求するが、立法院で与野党が衝突・混乱
4月11日、陳水扁・総統、年末の立法委員選挙と同時に公民投票を実施を表明。
6月30日東芝・石播が核四用原子炉を台湾に向けて搬送
?月、(財)原子力安全基盤機構は台湾の(財)核能科技協進会との間で2004年から「原子力情報交換会」をスタート。
記録片「貢寮,你好嗎?
2005

2月 京都議定書発効(アメリカ合衆国は批准していない)
8月 アメリカ合衆国で「包括的エネルギー政策法」成立。原発開発を含めて推進体制ができあがる。
10月 日本 原子力政策大綱を閣議決定。原子力発電を基幹電源と位置づけた。

2006 7月、「核四」工事67.48%完了。
8月14日、台湾政府は第四原発、工期の大幅遅延に伴う費用として追加予算447億5000万元(約1589億円)を承認。
11月、日立製作所とGEが原発事業を統合ー約5000億円で東芝がGEを買収(中国、アジア市場がターゲット)
2007 12月21日、アメリカ合衆国 ライス国務長官が「台獨反対」「国民投票反対」を言明。
2008 3月、馬政権が誕生、国民党政権による原子力政策の再構築
パイワン族反核連盟が組織され、12月に台東で反核誓師大会。
2009 7月24日、台湾電力会社は台湾原子力委員会に対し、第一(金山)原子力発電所の運転期間を40年から60年に延長するよう申請した。また来年には、新たに4基の原子力発電所の増設申請するためのフィージビリテー・スタデイに入る。
2010

2月、アメリカ合衆国オバマ大統領、原発開発への政府補助金支出を決める(スリーマイル島事故以来、30年ぶり)
3月、核四制御室が焼失する事故。核四、民国100年に予定していた操業開始を見直しか?

「夏潮論壇」1986年6月号、「原発の黒幕を見直す」(http://tanakanews.com/a7rupo.htm、より転載)

 輸入された原発プラントは、台湾の業者が建設を請け負う。どの業者が請け負うかといった点で、今度は台湾内で利権の取り合いになる。第3原発の工事をめぐる利権の取り合いは、その典型だった。
 台湾南部の軍人が退役後に入る「補導委員会」は第3原発建設の知らせを聞き、建設工事に参入するため「南部労務技術サービスセンター」という会社を作り、台湾電力の工事事務所に参入を求めた。軍人の作ったこのセンターは、当然の事ながら技術も経験も不足しており、工事事務所はセンターの参入を認めなかった。すると補導委員会は軍の人脈に働きかけ、数人の大物軍人が工事事務所を訪れて台湾電力の関係者を「説得」し、サービスセンターは工事を請け負えるようになった。
 しかしサービスセンターは工事より戦争が本業の軍人が作った会社なので、工事を請け負っても自分の会社だけでは何も作れない。結局、日ごろから軍の人脈と親しくしているいくつかの企業に工事を発注し、それらの企業もまた、自分のところだけでは多くの分野にまたがる複雑な原発工事の全てを請け負うことはできず、さらに孫請けする。こうして通常でも5段階の下請け発注を経た結果、最後には土木の工事は土木だけに携わっている会社に、配管工事は配管だけを行う業者が仕事を請け負うことになる。工事の全体を見渡す役割をする者はおらず、設計ミスやいい加減な工事が見落とされがちになる。
 工事の仲介をした企業にはマージンが入る。始めに仕事を請け負うのはベクテル社と台湾の「中興工程社」の合弁で作られた「泰興工程社」であり、この会社が一番多くのマージンを取る。すでに述べたように中興工程社の代表は故・蒋経国総統の息子、蒋孝勇氏で、同社の儲けは国民党に入る。工事を2番目に請け負う人々は補導委員会の関係者などの軍人で、彼らは2番目に多くの取り分をもらう。さらにその次には、軍人と親しくしている業者がマージンを得る。
  こうして各段階で利益はどんどん剥ぎ取られ、一番下で実際に工事を請け負う会社は、ほとんど利益が出なくなってしまう。そうなるとこの会社は見つからない範囲でどんどん手抜きをするようになる。工事の全体を把握して監督する者がいないため、手抜き工事がまかり通ってしまう。また総合的な技術が足りないため、施工時の間違いからアメリカから輸入した高価な機械が壊れてしまい、工事費の増加や再発注のための工事の遅れを招いている。
 第3原発の場合、本来丈夫で滑らかでなければならない原子炉を囲む壁面が、完成して間もなく、ぼろぼろと崩れてしまった。本来このように崩れたら壁全体を作り直さなくてはならないのだが、少し手を加えて修理しただけで検査を通してしまった。どんないい加減な工事であれ、軍の偉いさんたちがやってくると、一発で完成検査が合格になってしまうのだ。
 またその壁に石鹸水を掛けると、泡がぶくぶくと発生するという。つまり本来、空気を全く通さないはずの壁面に穴が空いているわけで、炉の内部が外よりも高い気圧に保ってあるため、外から空気が入ってくるのだ。台湾のあちこちで大声で語られている「原発の安全性」はこうした実情の上に成り立つ神話なのである。
◎台湾の原発事故一覧 (http://tanakanews.com/a7rupo.htm、より転載)

 1978年10月:第1原発から気体の放射能が漏れだし、アメリカの会社が応急修理して改善されるまで1ケ月かかった。
 1980年8月19日:第1原発の冷却水取水口が海上を漂うゴミで塞がれる。循環ポンプの入口の網と集水器の水槽が詰まり、冷却水の供給が止まる。
 1980年8月27日:第1原発の冷却水取水口が再びゴミで塞がれる。今回はさらに重大で、低圧タービンの保護膜が破れる。
 1982年1月7日:第1原発の作業員、欧萬居さんが原子炉を修理中に転落してけがをし、大量の放射能を浴びて3日後に死亡した。6年後に埋葬したが、その時まで彼の身体は全く腐らなかった。
 1982年2月23日:第2原発で4人の作業員が放射性廃棄物処理系統の修理、検査をしている時、汚染物を身体に浴び、2~7レムの放射能を浴びた。
 1982年3月:第1原発の放射性廃棄物が台北県石門郷のゴミ捨て場に捨てられ、ゴミ捨て場が放射能汚染されているのが見つかる。
 1983年2月23日:第2原発2号機の原子炉に海水が入り込み、炉が停止する
 1984年6月:放射性廃棄物を積んだ船と漁船が金山港の外洋で接触し、廃棄物を入れたドラム缶が海に落ちる。
 1984年8月7日:第1原発の飲料水製造機にセシウム137が入れられ、水を飲んだ7人の作業員が被爆する。
 1984年10月:第3原発の龍興旺さんら3人の作業員が冷却水の排水口で潜水して清掃した後、次々と発病し、死因不明のまま数日間で相次いで死んだ。
 1985年7月7日:第3原発1号炉で大火災が発生。修理して正常運転を始めるまで1年2ケ月間運転を停止し、一日当り一千万元の損失をもたらした。
 1985年9~10月:第1原発で連続運転の記録を作るため56日間運転し続けたため、放射能を大気中に流し続ける事件が起こり、その後長期の運転停止を引き起こす。
 1986年1月15日:第1原発で大規模な放射能漏れがあり、発電所の全員が避難する。原子力委員会が発電所近くに設置してあった測定器は全て故障していた。事故の後、委員会が調査しようとしたところ、当時の作業日誌がなくなっており、捜したところ重要な部分が破り取られた形で見つかった。
 1986年3月25日:第1原発2号炉が418日間連続運転して世界記録を作った。しかし記録を作るため、運転を止めて行うべき修理を運転したまま行っていた。
 1986年4月29日:第2原発で二酸化炭素が漏れだし、9人の作業員が中毒にかかる。
 1986年6月17日:第2原発1号炉でモーターが焼ける。
 1986年7月2日:第2原発2号炉で放電事故があり、作業員2人が火花で火傷する。
 1986年7月:第2原発で2件の火災が起こり、台湾電力は事故を隠そうとしたが、新聞にすっぱ抜かれる。
 1986年7月:第3原発の排水口付近の海域で大量の珊瑚が白化、死亡しているのが分かる。
 1986年10月22日:第3原発で4人の作業員が間違って高放射能地区に入ってしまう。
 1987年4月11日:第2、第3原発の作業員が眠りこんで巡回を怠ったのが見つかる。
 1987年10月7日:第3原発1号機の蒸気発生機のタービンの翼で裂け目が見つかる。                     
 1987年10月26日:第2原発で台風のためタービンに水が入り、炉が2つとも緊急停止する。水がしみ込み、状況は翌年になっても改善されなかった。
 1986年11月:第3原発で何回かに渡り、放射能汚染された排水が規則に反して流される。
 1988年2月:第1原発1号炉で停止期間不足のまま運転を再開していたことが分かる。
 1988年3月:第1原発の作業員 如意氏が、熱交換器の細管の侮ヒ能を除く作業中に放射能を含んだ粉塵で被爆したことを自ら発表する。
 1988年3月:第3原発で2つのコバルトが盗まれたのが発覚する。
 1988年3月22日:台湾電力が「84年4月から88年3月までの、原発から大気中への放射能漏れ事故は第1原発が117件、第2原発が51件、第3原発は106件である」と発表する。
 1988年4月:第2原発の800人余りの作業員の健康診断をしたところ、全体の17.5%の人に肺疾患が起きていることが分かる。
 1988年5月12日:第2原発1号機の大修理中、放射能の安全防護が不十分で、約200人の作業員が放射能汚染を受け、発電所の外の土も汚染される。
 1988年5月27日:第2原発で2酸化炭素の自動噴出器が誤作動し、3人の作業員が中毒にかかる。
 1988年7月:第3原発付近の浅い湾の珊瑚礁のうち半分が白化現象を起こし、前年より悪い状況になっていることが分かる。