沖縄と北海道

2005年5月10日記 ”国内”植民地
2005年5月17日記 黄色いハンカチ・黄色いリボン運動

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「人類館事件」100年の取り組み よみがえる人類館 

自衛隊ニュース(黄色いハンカチ・リボン運動)全国に広げよう自衛隊員の無事帰国を祈る黄色いハンカチ運動黄色いリボンの部屋
「平和の白いリボン」をつけよう黄色いハンカチ運動 強い違和感

2005年5月10日記

 ここは、「沖縄の簡単な歴史」と「アイヌの簡単な歴史を頭において、読んでくださいね。
 
 「日本」が明治維新をはさんで、夷敵(外国・・特に西欧列強)の脅威を感じながら、近代中央集権的国家を作っていく過程で、まず最初に植民地化するのが蝦夷地(江戸期までは中央政府からは外国として位置づけられていた)で、「日本」はこれを「北海道」と勝手に名前をつけます(1869年)。

 次に植民地化するのが、琉球です(琉球処分:1871年〜79年)。ここにも勝手に「沖縄県」という名前をつけました(1879年)。

 北海道と沖縄を「国内植民地」と呼ぶ人もいますが、「国内」というのは結果論です。沖縄には琉球王国という主権国家があったのだから、これは「外国を侵略した」わけです。北海道には、そのような中央集権的な「国家」のようなものはなかった(この事情は、台湾でもどこでも先住民は<中央集権国家>という概念はもたないですね)けれど、少なくとも江戸中期までは蝦夷地を外国扱いしていたと思われます。「日本」が、勝手に北海道も沖縄も侵略して「国内だ」と決めたわけです。それも、朝鮮や台湾を植民地化するのと、20年〜30年くらいの差があるだけですから、同じ歴史の流れの中で侵略と植民地化が起きています。

 朝鮮半島も、台湾も、そのようにして「日本」が勝手に「国内だ」と決めたわけですね。そのときに「内地」と「外地」という差別があったではないか、と言うかもしれませんが、この差別は北海道にも沖縄にも同じように存在してきました。北海道で「内地」と言えば、「日本」を指しますし、沖縄でも同じです。

 北海道の場合には、アイヌ人の人口は今では数えるほどで、北海道のマジョリティは「内地」から殖民した人たち(の子孫)です。この事情は、ハワイ島にも似ています。ハワイでハワイ人というとき、それは先住民を指す場合と、1895年以降にアメリカから移住した人たち(の子孫)を指す場合と、両方あります。移住・殖民した人々の子孫にとって見れば、その土地は自分たちの親たちが苦労して開墾した土地なのですから、ハワイ人とは当然自分たちのことだと思う。北海道の住民も、おそらくそうですね。北海道人というカテゴリーがあるとしたら、それは移住者・植民者の人たちを指すのでしょう。

 沖縄ではこの事情は違ってきます。沖縄開拓のために内地から殖民・移住したという話は聞いたことがありません。北海道が開拓すれば農業や畜産業に適していたのに比べ、沖縄は土地も限られており、そのような魅力はなかったのだろうと想像します。沖縄は、逆に内地への労働力の提供(出稼ぎ)で有名ですし、南米、ハワイなどへ大量の移民を出していることでも有名です。沖縄人と言えば、それは沖縄先住民(の子孫)を指すと思います。沖縄人・・・沖縄では「ウチナーンチュ」と称しますね。で、その「沖縄人」というカテゴリーは、内地では蔑視の対象になりました。

 最近でも沖縄人は蔑視の対象となる事件が起きています。この辺の事情を伝える話として、彫刻家の金城実という人が書いた文章(http://www.jinken-net.com/old/hiroba/2000/hiroba0008.html)を引用します。

大阪のウチナンチューと差別
金城 実  大阪JR環状線の大正駅を下ると沖縄出身者が多く住んでいる。沖縄料理屋や呑み屋が多い。まるで沖縄文化をそのまま再現したものだ。そこでは沖縄語、三味線、空手道場、琉球舞踊研究所などがある。カラオケも琉球民謡が唄われる。犬の鳴く声も何か、ワン、ワン、ワーンワ(私は)と聞こえてくるから不思議だ。

 そこで沖縄出身者が戦前、戦中、戦後と本土社会でどう生きてきたか。筆者著書の『土の笑い』築摩書房出版でも触れているが、そもそも戦前から貯木所のあった川で木を川に浮かしたり、戦後はスクラップ業で、それでも川辺や沼地に杭を打ち込んでバラックの中で生活したのもいたし、ごみ捨て場でスラム化した集落もあった。

 都市計画で大阪市は、同胞を追い出すのに、同じ沖縄人のチンピラ組織を用いたこともある。差別構造の中で権力がつかう手だ。その手はまた、串田病院で沖縄の看護婦が日本語が通じにくいと解雇される事件が起こり、同じ手を用いた。ところがわれわれが沖縄語で対応したので、チンピラは引き下がった。解雇を撤回させ、女性の名誉を回復させたが、優しい沖縄の女性は慰謝料を要求せず、病院の人権差別を認めさせて静かに沖縄へ帰った。

  大阪では集団就職できた青年が殺人事件を起こし、その背後に沖縄人に対する差別があったことが分かる。拘置所で自殺してしまった。ここから生まれたのが沖縄青年による「ガジュマルの会」であり、差別と偏見に打ち勝つために、沖縄の文化である盆踊りエイサー踊りを、大正区の市民グランドで打ってでることにした。筆者が先頭に立って太鼓を打ち、三味線とパーランクー(小太鼓)などを打ち、10数人で舞ったが、沖縄の先輩たちはまるで迷惑そうに、軽蔑のまなざしで見物していた。沖縄文化は恥から解放されていなかった。

 この頃、沖縄では海洋博、さらに皇太子の沖縄での献血運動があった。翌年の1984年に、方言論争が起きた。料理文化と等しく沖縄史は、沖縄の方言は差別と偏見にさらされてきた。戦時中は「沖縄語ヲモッテ談話シアル者スパイトミナシテ処罰スル」と軍規に記述されているからだ。そのために沖縄戦の悲劇は沖縄語でもって多くの被害を受けている。

 平和憲法下にありながら沖縄の新聞投書で「方言は迷惑」「学力の低下に通じる」「非行の原因」など、実に妙なる雲が登場してきた。1985年、東京に飛び火して赤羽の呑み屋五軒に、「沖縄出身者はお断り」という看板が出た。まさに昔の「朝鮮人、琉球人お断り」という看板が出没した時代を思わせた。日本の差別構造が政治的構造だけでなく、文化の基盤である料理やことばにまで及び、人間の生理の分野にまで噛い込んでいく現実からすると、人権の保障などを詠った民主主義が未熟であることを痛感するのである。

 1903年の大阪、勧業博覧会での「人類館事件」については知っていますか。これは昔の話ではあるんですが、今そのような蔑視が解消されたわけではないということは、上記の記事からも分かります。

 勧業博覧会会場の横に作られた人類館というのは、まあ、見世物小屋のようなものだったそうです。そこで、中国人、台湾の原住民、アイヌ人、沖縄人、朝鮮人を「陳列」して、お客(日本人)がこれを見物したんですね。沖縄からは二人の女性が騙されてつれてこられていたのですが、2日間陳列された後、逃げるんですね。で、沖縄人がこの事件を知って「アイヌ人と一緒にされるとは屈辱だ」というような言い方が沖縄の紙面を覆った。まあ、そんな事件が「人類館事件」です。後日、沖縄ではこの事件に対して「アイヌ人と・・」というような言い方したことを大いに反省することになるのですが。

 「日本」が、植民地人をどのような目線で見ていたか、この人類館事件は分かりやすく教えてくれているのかもしれません。開発された主体としての日本人と、未開発な野蛮人・・・・そのような対比が人類館事件を作り出している。

学術人類館事件(1903年、大阪)

 今から約100年前、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に、「学術人類館」なるパビリオンが出現した。館内では、「未開人」として「琉球人」「北海道のアイヌ」「台湾の生蕃」「朝鮮人」など生身の人間が「陳列」され、鞭を手にした説明人が「こやつは…」という侮蔑的な調子で解説したという。しかし、「琉球人」の「陳列」は、「我を生蕃アイヌ視したるものなり」という沖縄側からの批判で中止になったが…下線は阿川⇒引用先サイト
人類館事件  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人類館事件(じんるいかんじけん)、「学術人類館事件」と呼称する場合もある。1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の便乗商売として、民間業者が会場外に作った「学術人類館」において、沖縄、朝鮮、アイヌ、台湾高砂族、インド、マレー、ジャワ、アフリカの人々を、民族衣装姿でそれぞれの民族住居に住まわせ展示され、見世物として観覧させた事件である。

特に、沖縄出身の言論人太田朝敷が「学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為」であると抗議し、沖縄の地元紙である琉球新報も差別的であるとして同調、沖縄県全体に非難の声が広がり沖縄出身者の展覧を止めさせた。

当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議でもあった。

この事件に関して、『人類館・封印された扉』の著者、金城馨は、沖縄の人々の抗議により、沖縄人の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、沖縄人も差別する側に立っていた」と主張している(下線は阿川)
 左の写真ははっきりしないけど、人類館パビリオンでの記念撮影らしい。前列中央の鬚の男性は「アイヌ」のようです。後ははっきりしません。1903年の時点では、これらの”陳列された”人々―台湾、琉球、アイヌ(北海道など)は”日本人”であったわけですが―は、”日本人”から見て”異民族”であったことを示しています。単に”異民族”であるだけでなく、”日本人のように”文明化していない、未開で、野蛮な”異民族”というニュアンスもあったと思いますね。当時の沖縄の人たちの反発が、そのことを教えてくれます。

 後に、台湾人女性が、日本に連れてこられて興行(歌や踊り)したことも、人類館事件などに見られる”日本人”マジョリティの考え方と無縁ではない。
 左は2004年ころの朝日新聞かな、はっきりしませんが、人類館事件から「100年たっても変わらぬ現状―沖縄全体が人類館に」という見出しになっています。どういう意味なのかな。ヤマト(日本本土)には最近、ずっと「沖縄ブーム」があります。「沖縄人は歌や踊りが上手だ」「エーサーや沖縄舞踊、言葉など、独自の文化を持っている」・・・そういう言説が”沖縄”を”本土”から分け、見世物的な意味を与えている。「きれいな海と空」といった観光言説も、同じ機能を果たしている。・・・そう考えたら、ヤマトにとって、沖縄は今でも”異国”であり”異民族”であり、”ヤマトが忘れてしまった古き良き何か”を今でも保持する”文明化の遅れた”土地、人々であるのかもしれない。

 「独自の文化」とか「きれいな空と海」言説は、確かに沖縄を”あからさまに見下す”言説ではないように見えます。「台湾はどこか懐かしい感じがする」という日本人観光客の言葉も、台湾を”あからさまに見下した”ものとは言えないかもしれない。しかし何か”変な感じ”がしませんか?

 


2005年5月17日記

 北海道と言えば・・・・
 沖縄と言えば・・・・
 
 私は、北海道というと、最近は自衛隊をすぐに思い出すんです。もちろん、自衛隊は日本全体に基地を持っていますが、北海道は演習をやったりするのに広い土地があって周りにあまり文句を言う住宅街がない。


黄色いハンカチ・黄色いリボン運動 

 自衛隊(日本軍)のイラク派兵が決まり、実際に自衛隊がイラクのサマワという場所に派兵されるようになりました。そこで始まったのが黄色いハンカチ運動でした。黄色いハンカチ、っていうのは山田洋二監督の映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977)から来ています。その映画の舞台が北海道。こういう話です。

刑期を終えた中年男が、行きずりの若いカップルとともに妻のもとへ向かう姿を描いた“健さん”主演のロード・ムービー。北海道網走。夢だった新車を買って北海道をドライブする欽也は、途中女の子をナンパし、ふたりで旅を続ける。ある時、ひょんなことから出所したばかりの中年男・勇作と出会い、旅をともにすることに。やがて、ふたりは優作から“自分を待っていてくれるなら、家の前に黄色いハンカチを下げおいてくれ”と妻と約束したことを打ち明けられる……。あまりにも有名なラストは“あざとい”と感じながらも涙せずにはいられない感動作。(出典

 この話は、山田洋二の作ったものではなく、元の話があります。How the Yellow Ribbon Became a National Folk Symbolというサイトに詳しい話がありますが、アメリカで1950年代終わりころにできた話が世間で気に入られ、特に1972年にヒットした"TIE A YELLOW RIBBON 'ROUND THE OLD OAK TREE”以降、定着したようです。最初の話は、刑期を終えて刑務所から出てくる男が、自分の家族がまだ自分に帰ってきてほしいと思っているなら、古い林檎の木に白いリボンをつけておいてくれ―もしリボンがなかったら、自分は家に帰らずにどこかへ行くから・・・。という話だったのが、林檎が樫の木になり、白いリボンが黄色になった。このサイトでは「南北戦争時代からの伝統だ」というのは嘘だということをちゃんと述べています。

 この最初の話は、リボンを木に結ぶ=「帰ってきてほしい」ということですね、要するに。

 湾岸戦争のときから、アメリカ合衆国の中で、派兵されている兵士たちが無事に戻るようにと、黄色いリボンをいろいろなところにつけるのが、一種の習慣みたいなものになったようです。1ヶ月前にカリフォルニアに行ったのですが、フリーウエーを走る車の4,5台に1台は、黄色いリボンのステッカーをつけて走っていました。今はイラク派兵。



今使われているステッカーは、こういうやつです。左上の人みたいにたくさんつけてる人は見なかったけど、リボンを一つつけている車は(さっきも言ったように)多い。真ん中のリボンは、よく見えないけれどSupport Our Troops(われわれの軍隊を支持しよう)と書いてあります。右に並べたのは、男たちが無事に帰ってくるように、というリボンですね(この絵を拾ったサイトには女性兵士のやつはなかった・・・)。Tシャツなんかもある。

 さて、「帰ってきてほしい」というのと「われわれの軍隊を支持しよう!」というのは同じなのだろうか?アメリカで、実際に自分の知っている誰かがイラクに行っていて、その人に帰ってきてほしいと思い、黄色いリボン運動に参加する(つまり黄色いリボンのステッカーをつけたりする)人たちがいる。その人たちは、ただ帰ってきてほしい、すぐに帰ってきてほしい・・・そういうことだけじゃなくて、「兵士は私たちのために―アメリカのために―戦っているのだ」「だから、軍を批判しないで支持しよう」「侵略や利権のために戦っているんじゃないんだ」ということを、Support Our Troopsという言い方で表現しているのだと思います。

 去年、北海道の旭川市の商工会の人たちが、次のような宣言をして「黄色いハンカチ運動」を始めました。この「黄色いハンカチ」というのは、アメリカの「黄色いリボン」を題材に北海道を舞台に作られた映画「幸福の黄色いハンカチ」に因んだもので、山田洋二監督は、そんな風に使われるとは思っていなかったようですが、使われました。

 イラクヘの人道復興支援のため派遣される旭川市に司令部を置く陸上自衛隊第二師団隊員の無事帰還を願い、その意思表示として「黄色いハンカチ運動」を企画いたしました。
 彼らの復興支援活動を忘れない為にも、また、無事に帰ってくることを願いつつ、旭川市のシンボルでもある常盤ロータリータワーに直径50cmの正方形の黄色いハンカチを連ねて掲げ、これを起爆剤にして旭川発の本運動を全道、全国に拡げたいと考えております。
 この運動は、派遣賛成とか反対とか諸々の一切の思想的、政治的背景を持つものではなく、如何なる背景が在うとも、この旭川から困難が予想される任地へ旭川市民が(自衛隊員)赴くと云う事に対して、私たち旭川市民の一員として、有志を募り、その、「私たちは待っています…」と云う、意思表示として「黄色いハンカチ」をその心の象徴として、また、忘れない為にも旭川へ帰ってくるその日まで掲げ、心から無事を祈り帰還を待つものです。
 既に、この運動に賛同し、黄色いハンカチを身につけ、日々の無事を祈っていることを表している市民の方々もおりますし、市内の企業でまとめて購入し、社屋に掲げたり、社員や家族に配布しているところもあります。
 黄色いハンカチはひとつの表現例であり、バリエーションはいくらあっても良いと考えております。
 思い思いの表現で全国に拡がることを願っております。

平成16年1月吉日「黄色いハンカチ運動」有志一同

 この運動は、北海道でまず広がり、徐々に日本全国に波及しました。多くの人が参加しているとは言いがたいけれど、確実に広がっていった。下の写真は、先冬の札幌雪祭りの自衛隊の作品ですが、大きな「黄色いハンカチ」を周囲に立てています。

                 

 黄色いハンカチ運動は、その元祖であるアメリカの黄色いリボン運動と最近では混同されてきて、日本でもハンカチでもリボンでもいいということになってきているようです。

 「無事に帰ってきてほしい」ということと「軍隊を支持しよう」ということは、アメリカの場合でも混同すべきではないという意見が強く存在します。(例えば、Before You Mindlessly Tie Another Yellow Ribbonを見てみてください)

 日本でも、次のような意見は、まあ一般的な意見と言えるかもしれません。

揺れる「黄色の運動」http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_B211.htm

  朝日新聞(1月28日付)に  「揺れる『黄色の運動』 自衛隊員の無事願う旗・ハンカチ」という記事がありました。はじめの部分を引用します。

 北海道旭川市で、黄色の旗やハンカチがはためき、黄色いリボンを胸につける市民が目立ち始めた。 陸上自衛隊のイラク派遣で、第一陣の中核となる第2師団の地元。経済人や隊員OBが無事帰還を祈ろうと、道内が舞台の映画「幸福の黄色いハンカチ」にあやかり呼びかけた。
 師団側は歓迎しているが、派遣反対派は「旗を掲げることは派遣を前提にしており、是非論を覆い隠すことになる」。 賛否が割れた世論を象徴する波紋が広がっている。


 記事のなかには、60代の男性が「まさに21世紀の千人針」と語ったことも紹介されていました。
 黄色いハンカチやリボンが、即派遣賛成の意思表示とは言えないと思います。
 隊員の無事を願う思いは、派遣反対の人々も同じ思いだからです。(ただし個人的には、黄色いハンカチという発想は「おまじない」めいていてあまり好きになれませんが……)

 この黄色の運動はどのような観点から始まったのでしょうか。
 1月なかばごろ、札幌ゆきまつりに協力している自衛隊第11師団の師団長が隊員への訓示で、イラク派遣反対の活動が過ぎて協力できる環境でなくなるなら、まつりからの「撤収も含めて検討する」と語ったということが報じられていました。
 とてもいやな記事でした。国民の自由を守る自衛隊の師団長が、国民に圧力をかけるようなこの発言は、戦時の言論統制をイメージさせるものがあります。

 そして、黄色い旗やハンカチが、自衛隊員の士気を気づかうあまり飛び出た師団長の発言に象徴されるような意見に呼応しての自衛隊員への激励の意思表示だとしたら、この運動も言論統制に近い動きと深読みすることもできます。
 しかし、黄色の運動に参加する多くの人々は、純粋に隊員の無事を願っての行為と考えます。

 ただ、記事の中に、「自民党国会議員事務所が黄色い旗を掲げた」とあるのには驚きました。
 非戦闘地域に復興支援を行うために派遣することに賛成しておきながら黄色い旗を揚げて、「無事帰って来て」はないでしょう。
 無責任極まりない行為と思います。隊員は国家の命令によって危険な地域に派遣されるのです。
 隊員のいのちが本当に心配なら、派遣を止めさせるべきです。

 国会では30日の夜から31日の未明にかけて衆議院で自衛隊のイラク派遣が承認されました。
 そのニュースを見ていましたら派遣賛成議員の多くに黄色のリボンが見えました。
 千人針は、銃後の戦意高揚を煽るために利用されました。しかし、その千人針は、戦後の私たちに戦争の無意味さ虚しさを象徴するものとして語り継がれています。
 政府には、黄色い旗が虚しさと切なさを象徴するものとして揺れ続けることがないようにする責任があります。
 イラク復興支援のために、本来なら必要のないはずの人殺しの道具を大量に持っていかなければならない矛盾を、小泉首相は理解できているのでしょうか。

 また、派兵反対派の人たちの中には、次のような運動も生まれてきているそうです。

イラク派遣反対 白いリボン着けて歩こう 2月1日に古賀市 主婦ら500本つくり準備

 自衛隊のイラク派遣に反対して、古賀市内を行進するピースウオークが、二月一日午前十時に、同市役所職員駐車場を出発、JR古賀駅前広場までの約三キロのコースで行われる。
 昨年三月にイラク戦争に反対して行われた市民行進に参加した市民や市議ら約五十人が呼びかけ人となってつくる「自衛隊のイラク派遣に黙っていられない仲間たち」の企画。参加者には、派遣反対を意思表示する白いリボンをつけてもらうことにしている。
 白いリボンは、福岡市・天神で七十代の男性が肩につけて街頭に立ち、派遣反対を示した。これに賛同し、古賀市舞の里五丁目、主婦中村富久美さん(47)ら女性約十人が「母親として、せめてもの抗議の意思を」とリボンづくりを引き受け、五百本を用意する。
 呼びかけ人グループは「政党や宗教、市民団体の枠を超え、自衛隊容認でも今回の派遣には反対する人も含め、だれでも参加してほしい」としている。問い合わせは呼びかけ人代表・西山いづみさん=092(942)7406。
[2004/1/29]

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 北海道や沖縄について考えるとき、いつも軍隊とか基地とかを考える必要はまったくありません。でも、逆に軍隊や基地についてまったく考えない、というのは、特に今の時代では無理だと思いますね。台湾では、北海道も沖縄も<自然がきれいな観光地>というようなイメージで捉えられているように阿川は思います。しかし、両方とも日本の国内植民地であり、そうであるが故に、日本という国に利用されてきた100年以上の歴史があります。現在、沖縄は米軍、北海道は日本軍・・・そのような軍事的利用をされていることは、沖縄や北海道に生活する人にとっては、生活の一部であり、人によって大いに影響を受ける一部です。皆さんも沖縄や北海道に行くとしたら、観光地だけを見て「消費する観光」ではなく、そこの人たちの生活のいろいろな側面を知り、何かを切り捨てない「消費しない観光」をしてほしいです。

 ハワイ、グアム、サイパン・・・これらの日本にとっての観光地はすべて、背景に軍事基地があり、その経済は軍事と観光の二つの柱によって支えられています。

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