物語と歴史:霧社事件ってなんだろう?

2007年3月21日記

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 「物語」と「歴史」・・・英語だと、storyとhistory― どういう関係なのかな、考えてみてください。歴史は何か客観的なものであって、物語というと何か「作り話」とか「うそ」、あるいは、まあ、主観的なものという印象があるかもしれません。でも、何が「客観的」で何が「主観的」という言い方はよく考えないと誤ると思います。

霧社事件って何だろう?

 例として1930年に起きた霧社事件を考えてみました。
 霧社事件は、どのような話として語られますか?普通は「原住民の抗日蜂起」として語られますね。そのお話(物語)は、日本の支配に抵抗して、原住民が子供も女性も犬までも勇敢に闘った、と語られる。もちろん、ちょっと違った語り方もあると思いますが、私たちの頭の中に<刷り込まれた>物語としては、大体そのようなものでしょう。

 228事件も、すでに私たちの頭の中にその物語が<刷り込まれている>歴史の例になるでしょう。228事件って何?どんなことがおきたの?と聞かれたら「2月の28日、闇タバコを売っていた中年のおばさんが・・・」という風に、物語は始まる。霧社事件の方は、228ほど語り方が定まっているわけではありませんが、それでも「抗日蜂起」であり、モナルダオが「抗日の英雄」―こういうストーリーの主な筋は出来上がっています。

 事実の一部だけを言えば、1930年10月27日、霧社公学校で行われた運動会の会場に、刀と日本警察の小銃などで武装した男たちが乱入し、子供を含め、その場にいた「日本人」(見分けがつかなくて原住民の子供の中にも被害にあった子供がいた)を惨殺した。同時に、警察署、派出所も襲われ、やはり「日本人」は惨殺された。―もし、この事件が現在起きていたら、メディアは「同時多発テロ事件」とでも形容するはずです。そして、誰かが「無抵抗の子供たちを惨殺するなど、絶対に許せない!テロリストは人間ではない!」とテレビで怒鳴るでしょう。

 実際のところ、霧社事件当時の日本のメディアは、これに近い報道をしています(参考資料)。そして、日本の台湾総督府は、軍隊を山に投入して「テロリスト」の掃討作戦を展開します。その際に、原住民の中で日本軍に協力する人たちに報酬(蜂起した部落の人々の首―大人の男なら・・円、女なら・・円、子供なら・・円と値段をつけて)を出して、蜂起した人々を狩らせました。日本軍に協力した原住民を「味方蕃」といい、蜂起に加わった原住民を「敵蕃」と呼びました。事件は、みなさんも知っているように、日本軍がモナルダオたちを一掃して、蜂起に加わった敵蕃を一掃し、生き残りを強制収容所(ロードフ社とシーパウ社にそれぞれあった)に収容して一応決着します。その後、第二次霧社事件と呼ばれる事件―タウツァ社の人々が日本警察にそそのかされて収容所を襲撃して、敵蕃を惨殺する事件―も起き、暴力抗争が抑えられないことを理由に川中島(清流)に敵蕃は移住させられる。そのようにして敵蕃は霧社を追われ、彼らの土地(部落)は味方蕃に(報酬として)払い下げになった。

 事件後、日本は、霧社の公学校を見下ろす丘の上に「日本人慰霊塔」を建てて、犠牲者の慰霊をします。この「日本人慰霊塔」には、犠牲者の名前が彫りこまれた。犠牲者の中には、味方蕃で、敵蕃との戦いの中で命を落とした人たちの名前も彫られていたそうです。

昔の「日本人慰霊塔」―クラスでは写真が見つからなくてごめんなさい。今、見つけました。
 これは慰霊塔の正面―霧社公学校の方から見た図ですね。裏側に、犠牲者(味方蕃を含む)の名前が彫ってあった。戦後、その
味方蕃の名前はだんだん削り取られたそうです。

なぜか?

 おそらく、戦後の国民党時代になって、霧社事件は「立派な抗日事件」というふうに評価され、味方蕃は、逆に「日本に協力した人々」と評価された。その味方蕃として親類の名前が慰霊塔に彫られていることは、当時霧社に暮らしていた原住民にとっては都合が悪いというか、恥のように思われたのだろうか。

 この慰霊塔は、
1972年に「日中国交回復」=日台断交に怒った国民党の役人(工務団の人)が、ロープをかけてジープで引き倒したのだそうです。

この塔の一番上の部分にある丸い石は、ある人が今でも保存しています。(見る


(写真は、下山家写真帳より−転載禁止ですよ!。)
 日本人慰霊塔の跡 (ロシ・ナボさんと、先輩たち:2001年11月撮影)この方向、下の方に霧社公学校跡(現在の台湾電力宿舎)がある。  日本人慰霊塔跡、全景。上左の写真は、公学校から見上げるような角度からとられている−塔の立つ土台が左のほうに延長されているように見える。その左の延長部分が、この写真に見る右方向の階段部分ではないかな。
 このときのロシさんは元気に御茶屋からここまでみんなと歩いてきた。そのロシさんも2007年の1月に他界した。気にかける人がいなくなった・・・。 2003/12には、慰霊塔跡の上に政府(公務団)の宿舎が建った。慰霊塔跡は完全に見えなくなる。しかし、この裏側に「階段」だけが残された(左下)
 
宿舎の裏側に残された、慰霊塔に登る階段。
これだけあると、不気味です。公務団の宿舎を建設した業者に聞いたけど、ここに日本人慰霊塔跡があるというのは知らなかった。近所に住む人にも聞いたけど、彼らも知らない。実際、それが本当のところなのだろう。
歴史が消えてしまって、誰もその物語を知らない。じゃあ、どうして階段だけ残ってるのかな?面倒くさいから、そのままにしてある?それとも、誰かが、何かを覚えていて、こうしたのか?謎です。
2003/12/27撮影。
  左は2005年10月23日。右は2006年10月28日。宿舎自体の工事もほぼ終わり、外壁もきれいにされたが、階段はまだ残されている。ティンユがツアーガイド・・・。

 少なくとも日本時代の終わりまでは、この日本人慰霊塔は霧社事件を代表する記念碑だった。そこでの霧社事件というのは、原住民が文明化する(日本化する)過程での貴重な犠牲という感じで語られた。それが、国民党時代のある時期に、評価がまったく変わって、「テロリスト」あるいは「野蛮人」が「抗日の英雄」になった。

 現在の「抗日記念碑」。モナルダオの立派な銅像も立てられていて、10月27日には、台湾政府の立法院議員などの名前の書かれた生花で記念碑は埋め尽くされることもありました。 右は2005年3月5日、ロシさんがツアー参加者に話をしてくれた。

 ここの階段は、よくこのように学生たちが座って先生の話を聞かされる場所だ。「ここは霧社ではなくパーランです」といった解説などが飛び交う。
 現在、霧社で抗日記念日のイベントを企画実行している人たちは、蜂起した「敵蕃」の子孫ではなく、むしろ「味方蕃」の子孫と言った方がいいのかもしれません。複雑ですね、その気持ちは。ちなみに、2006年の76周年の記念日から「紀念抗日霧社事件」ではなく「紀念霧社事件」の文字になった。

 下の三枚の写真は、2006年10月27日、76周年記念行事の様子(悠介撮影)。

  

 モナルダオは、テロリストなのか、英雄なのか―阿川はそのような判断を下すために、この話をしているのではありません。重要なことは、物語というのはその時代、その時代で変わる可能性があるということです。誰の視点から物語を語るか、それによっても変わります。

 しかし、それは「真実の歴史ではないだろう」と、みんなは思うかもしれませんね。日本の勝手な見方、国民党の勝手な見方―そういうのではなく客観的な見方というものがあるはずだ、と。そうなのかもしれません。そうではないのかもしれません。阿川に言えるのは、現在の霧社に暮らす人々の中にも異なる物語があること、霧社事件当時、生きて事件を経験した人々の間にさえ(もちろん立場によって)異なる物語があること、です。そのいろいろな物語の中で、何かを「真実の物語」、「客観的な物語」といえるのかどうか、阿川には分からないということです。

 物語と歴史とは違うのか。物語は主観的で、歴史は客観的なのか。霧社事件を例にして話してきましたが、どのような事件、どのような出来事にも、同様にさまざまな異なる物語が存在し、そこにはさまざまな立場が存在します。そのことを忘れずに、歴史というのを考えたいと思いますが、どう思いますか?

***

ケ相楊『抗日霧社事件をめぐる人々』日本機関紙出版センター2001より

1953年、仁愛郷警察分局(昔の霧社分室)の裏の空き地で防空壕を掘っていたところ、30体あまりの人骨が出てきた。当時、仁愛郷長だった高永清(中山清)は、日本統治時代に霧社分室で警丁をしていた葉炳然(客家人、1966年没)を探し出して、これらの人骨が霧社事件の抗日志士たちの遺骨であるという証言を得た。志士たちの名は残っていなかったが、国民政府は志士たちの志をたたえるために、これら無名の志士たちの遺骨を霧社桜台に合葬し、「無名英雄之墓」と名づけた。これが「霧社山胞抗日起義紀念碑」で・・・正門には、陳誠将軍が「碧血英風」と揮毫した。・・・霧社起義戦没者紀念碑記は、当時の台湾省民政庁長であった楊肇嘉の手になるもの。

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資料@



朝日新聞 霧社事件の第一報。(柳本、前掲書より) 本文に戻る

資料A


1972年、倒された慰霊塔の頭部を、下山一さん、操子さん、誠さんの三人で一輪の手押し車に乗せて、霧社の家(郵便局の裏の宿舎か)まで運んだというエピソードを語ってくれました。その後、この「頭部」(操子さんは「桃太郎さん」と呼ぶ)は、埔里の下山家にしばらくあった。下山家が、この眉原に墓を作ったときに、桃太郎さんも一緒に埔里から移動してきたのだそうだ。 2004/10/23 眉原の、誠さん経営の民宿裏にて。⇒本文に戻る

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