台日地区研究 03月11日のクラス  台日地区研究07年記録クラス情報阿川亭ホーム | 2007年度時間割
 

やったこと

@ アジアの人の移動
A みんなの家族はいつどこから台湾に来たの 
B 金のための移民 vs 理想のための移民   

(右の写真、右側は「オランダ東インド会社(VOC)」のマーク)
 
配布資料: PPでやりましたので、配布したものはないです
参考URL: 
宿題:フィリピンから台湾に来ている「契約労働者(OCW=overseas contract workers)」について、
@ いつごろから、何人くらい、どんな職種で、台湾にきているのかな
A 彼らが台湾にいて、どんな困難や問題があるだろうか
B 彼らはなぜ台湾にやってくるのだろうか
C 台湾は、なぜ外国からの労働者が必要なんだろうか
について、ちょっと調べたり、自分で考えたりした結果を持ってきてください。

@  アジアの人の移動

 今週も、2週間前に配布した三つの事件についての記事の背景を調べてくることが宿題でしたね。マレーシアのインド系住民、インドネシアの華人住民、そして日本のコリアン住民・・・・彼らはなぜ《外国》にいたのだろう(いるのだろう)、ということです。みんなが調べてきたことを聞いてから、阿川がパワーポイントで「アジアの人の移動」の歴史を紹介しました。ここでは、そっちを簡単に書いておきます。

まずフィリピンから始めました。フィリピンの記事は、問題にしている三つの中にはありませんが、「アジアの人の移動」―特に華人の移動を考えるときに必要だと思って、最初に紹介しました。

 フィリピンは16世紀、1521年に、有名なマゼランが寄港して10年も経たないうちに、スペインの植民地にされました。スペインの植民地の中心はアメリカ大陸にありましたね。で、スペインは、そのアメリカ大陸からの略奪品(特に「銀」)をアジア市場に売るための中継点としてフィリピンを利用したようです。その銀の交易の中心がマニラですね。1570年代にはたくさんの華人商人たちが、銀取引で活況を呈するマニラにやってきます。ということになれば、当然、仕事を求めて大勢の華人が(こちらは商人というより労働者として)マニラにやってくることにもなります。スペインは、華人の商業販路を利用したわけですね。

 フィリピンへの華人の移動は、ですから、ビジネスチャンスを求めての経済的な理由といえます。労働者として移住した華人たちも経済的な理由での移民ということになりますが、その背景には彼らの出身地である南中国(福建など)が中国の中で周辺化され、結果として南中国に十分な資源も、産業もない状態で、彼らは生きる道を模索してフィリピンへ渡ったわけです。

 現在、フィリピンの経済は、一部の華人資本家によって独占されていると非難する人もいます。華人たちは16世紀にフィリピンに移住し、その後、スペイン系の住民との結婚などを通して現地化してきましたよ。フィリピンがスペインの支配から独立したときの英雄とされるホセ・リサールという人がいますが、彼も中華系フィリピン人です。

 次に、インドネシアですが、インドネシアにも全球化=植民地主義の経済力が働きました。フィリピンの場合にはスペインという国が一つの会社のように、その軍事力を用いて植民地を収奪していったわけですが、インドネシアの場合は、オランダ(Holland, Netherland)資本が《オランダ東インド会社》(VOC)を作り、17世紀にその《オランダ東インド会社》が収奪を行いましたね。《オランダ東インド会社》は、現在のコカコーラとかマクドナルドよりも「国」と繋がった《会社》です。

 強制栽培というのは、植民地の農地を、宗主国にとってより利益になる作物の栽培に強制的に利用する、という制度です。

 左の地圖で「バタビヤ」というのは、現在のインドネシアの首都、ジャカルタです。フィリピンのマニラ同様、バタビヤは植民地作物の交易の 中心になります。そこにマニラの場合と同様に、華人商人たちが集まる。《オランダ東インド会社》も、華人たちの持っている販路と顧客のネットワーク、資本を利用するために華人商人たちを引き入れました(が、後に、華人人口が増えすぎたために、強制退去などの措置をとろうとして大混乱を巻き起こしますが、それはまた後の話です)。

 インドネシアの華人の歴史は、このように始まります。独立後、経済の70%以上を握るという華人の経済力は、このようにして出来上がりました。農地を収奪され、労働者として使われ、経済力をもたない一般のインドネシアの人から見たら、華人は植民地主義の手先(てさき)に見える・・・

 華人に対する排斥的な目線があるとすれば、その原因の一つは、こうした植民地支配の歴史の中にあるわけですね。

 次は同じ17世紀台湾を見てみますね。1624年から10年くらいかけてゼーランジャ(今の台南でしょうか)に《オランダ東インド会社》の拠点が作られました。ゼーランジャは《オランダ東インド会社》が東アジアの拠点として、そこから韓国、日本、中国に市場拡大をしていく足場だったのでしょうね。当時の日本は《鎖国》体制で、交易は長崎の「出島」に(少なくとも公式には)限られていたけれど、それもいずれ解放されるというようなことも狙っていたのかもしれません。

 この1624年以前には、台湾本島には華人はいなかったと言われています。彭湖島に数千人の華人がいたことは史実に残っているようですが、本島は”マレー・ポリネシア系の”先住民が暮らしていて、なんらかの”開発/開拓”の対象とは考えられていなかった・・・。

 ゼーランジャのオランダ東インド会社は、ここを交易拠点とするために大陸から華人商人、華人資本を招来した。最盛期で2万5千人の華人たちがゼーランジャにいたそうです。彭湖の華人とあわせても、せいぜい3万人程度ですね。インドネシアのように、台湾の土地を使って強制栽培をするという風にはならなかった−ゼーランジャはあくまで(スペインのマニラに対抗するための)交易の港だったようです。

 1660年に、大陸での野望に破れた鄭成功の軍隊が台湾に逃れてきます。蒋介石の軍隊と同じですね。で、ゼーランジャのオランダ軍を追い出して、大陸へ攻撃をしかけるい準備を始めた。まあ、これが成功しなかったのも蒋介石と同じですが。

 鄭成功によって華人化の先鞭をつけられた台湾は、ここから、福建省を中心にした貧農たちにとって開発・開拓の新天地(フロンティア)となったわけです。華人の移民が本格的に開始された・・・。
 時代は飛んで19世紀マレーシアの話をしましょう。オランダ東インド会社に遅れをとったけれど、イギリスの東インド会社がイギリス領マラヤの錫、ゴム、砂糖黍の生産のために、

 錫は華人の錫鉱山技師、華人資本、華人労働者を使って、また、ゴム、砂糖黍は大規模農場(プランテーション)に主にタミール人労働者を使って生産されたそうです。

 この「タミール人」というのは、インドの南の方に多い人びとですね。中国でも南のほうの人びとが周辺化されて移住労働に出ることが多いですが、インドでもそれと似た状況があったことが分かります。

 2007年の記事は、そのインド系の人びとが何世代も後になって、自分たちがマレーシアでいまだに対等な住民となっていない・・・そんな気持ちをもって抗議活動に至ったのではないかと、思います。
 同じ19世紀後半からの日本に目を転じてみますね。
 明治維新と呼ばれる政変を経た日本では、1869年に(それまで松前藩が私物化してきた)青森以北の土地を「北海道」と改名して明治政府の下に組み入れました。これが、はっきりとした形での日本の植民地の第一号ですね。次に、同様に(薩摩藩が私物化してきた)琉球を「沖縄」という名前で明治政府の下に組み入れた。これが第二番目の植民地です。第三番目は、台湾で、四番目に韓国、5番目が中国の東北部―ここは満州国という名前の、独立国を標榜しますが、内実は日本の植民地です―という順番になります。

 左の地圖で矢印を引くのを忘れてしまいましたが、本土から北海道への大量の移民が出ています(現在の北海道住民の大部分の祖先)。本土から(沖縄から)台湾への移住も相当な数に上ると思いますが、はっきりとしたところは阿川は知りません・・・不好意思。

 逆に、特に沖縄と韓国からは大量の移住労働者が日本へと渡っています。台湾から日本への人の移住は太平洋戦争末期までは、多くないという印象をもっていますが、正確なところは調べていないので知りません。

 太平洋戦争に突入(1941年)すると、朝鮮半島から何万人もの人たちを労働者として徴用すること(いわゆる強制連行)が行われた。 

 明治から1945年(日本の敗戦)までの、東アジアでの人の移動は、このように日本の植民地拡大に連動して起きた側面が無視できません。東南アジアでは、イギリスとオランダの東インド会社によって引き起こされた人の移動が、東アジアでは日本という軍事大国によって引き起こされているということが分かります。

 現在の日本に住んでいる「在日コリアン」の人たちの祖先は、19641年以降の「強制連行」で連れてこられた人たちではなく、それ以前に移住労働者として日本に渡った人たちだといわれています。強制連行で来た人たちは日本の敗戦後、できるだけ早くコリアに戻ろうという人たちでした。残ったのは、すでに長く日本に住み、家族を作っていた人たち・・・つまり、太平洋戦争以前の移住者たちだというわけです。

ちょっとまとめ

 最近外国人の労働者が増えたねえ―外国に行って働かなくてはならないというのは、かわいそうだねえ―やっぱり最近の全球化の影響なんだねえ

 こんな感想を持つ人は少なくないかもしれませんが、労働のため/生活のために人が国境を越えて移動することは、最近始まったことじゃありませんよ!私たちのほとんどは、そうして移住した人たちの子孫なのです。移住労働者と、”台湾人”との関係は、後者が以前に移住し現在は市民権をもっている人たちなのに対して、前者は最近移住し現在も市民権をもっていない人たち、との関係ですね。

A みんなの家族はいつどこから台湾に来たの 

 みんなに報告してもらったところ、一番古い人で大体300年前に移住してきた(福建から)ということでしたね。鄭成功以前の移住者というのは(彭湖にはいるかもしれませんが)いなかった。⇒去年の同じ調査の記録

B 金のための移民 vs 理想のための移民 

 最後に簡単に触れたことは、大事なことだと阿川は思いますが、「金のための移民」と「理想のための移民」という”お話”です。

 例えばアメリカ合衆国などで、今の中心を形成しているWASP(White Anglo Saxon Protestant=白人でアングロサクソン族の新教徒)たちの祖先は、宗教革命後のイギリス、ヨーロッパから、『宗教の自由を求めて』アメリカ大陸に渡った・・・・しかし、その後、特に20世紀に入ってからの二度の世界大戦の後、荒廃したヨーロッパやアジアから「いい生活を求めて」移民が流入した・・・・WASPたちは理想を求めて移民し、苦労して豊かな社会を作り上げた・・・・その苦労して作り上げた社会に、甘い汁を吸おうという目的で貧乏人や教育のない者達が大挙して押し寄せるようになった・・・でもアメリカ合衆国は寛大だから、そのような移民でさえ受け入れてきたけれど、そろそろ限界です・・・そんなお話。

 みなさんはどう思いますか?この「お話」は真実でしょうか?

 台湾にも同じようなお話が生きているかもしれませんね。漢人の祖先たちは苦労して台湾を開拓し、豊かな社会を作り上げた。その台湾に来れば、経済力の恩恵にあずかることができるという考えを抱いて、移住労働者たちが集まってくる。・・・・

 みなさんはどう思いますか?この「お話」は真実でしょうか?

 

台日地区研究ホームツアー写真集コース概要去年のクラス記録(参考)