Eaphet Newsletter No.15 文版 2013年7月1日発行   →記事一覧に戻る
福島第一原発爆発から台湾へ避難して 上前 昌子 

 時間の流れは早いもので娘と息子と3人でスーツケース3個のみを持って台湾に来てから、中国語も話せないまま暮らし始め1年3ヶ月が経ちました。原発の爆発後、慌しく時間が過ぎている部分と、自分の中でまるでそこだけぽっかり時間が止まってしまったかのような部分とが同居している毎日です。ふとした縁で、台湾でも自分が経験した原発爆発、避難という事をお話させて頂く機会をもらい、改めて振り返り書いています。

 私の自宅は原発から約60キロの郡山市にありました。大阪から夫の仕事の関係で転居し、のどかで住みやすい土地が気にいって7年前に家を新築し、4年前に庭にミニログを建てました。木製おもちゃの販売、自宅のリビングでベビーマッサージ教室、手作り工作教室、親子で遊べるプレイルーム、そこにはたくさんのお子さんやママさんパパさん、時にはおじいちゃんおばあちゃんも来店してくれて、忙しいながらも楽しく過ごしていました。娘の部屋の窓からは、安達太良山が綺麗に見えて四季の移り変わりを感じられる家でした。3月11日までは…。 


3月11日


 あの日は、たまたま宮城県で仕事をしていました。夫が仙台で単身赴任していて私も仕事で行き来していたのです。何が起こったのか?というようなものすごい揺れ、ものすごい音、電気も水道もしばらく使えず余震が激しく2日間は車の中でしか寝られない状況。ラジオしか情報が入らず携帯も繋がらないそんな中で原発のニュースを聞いたのです。郡山の自宅も気になるけどガソリンもなく道路も通行できないので帰れないまま、原発の状況に頭が真っ白になる程の衝撃でした。

 まず、3号機はプルサーマルでものすごく危険な燃料を使用しているのに、その点に一切触れない報道に違和感を感じました。これは何か隠されていると直感的に感じ、まずいことになっているなと思いました。仙台は原発から100キロ離れていましたが不安でした。

早くここから逃げたい

 ガソリンスタンドに夜中から並び続けようやくガソリンをいれると、埼玉から帰ってきた娘と小学生の息子を車に乗せ、実家のある京都に避難したのは、震災から9日目のことでした。京都に到着しまず驚いたのは、テレビの報道内容が東北とは違うことでした。関西の放送ではかなり切り込んだ内容で、原発で働く作業員の人がインタビューに「深刻な状況で、すぐにできるだけ遠くに逃げなければ」と答えていました。後日、その番組は出演者も変わっており、これは何か圧力があったなと感じる放送になっていました。
 その頃、郡山では「60キロ離れているから大丈夫」と思っている人が多く、友人は特に情報も入ってこないと話していたので、あまり危機感が無く、この落差に驚きました。とにかくネットやツイッターで情報収集して、いろんな友人と連絡をとり合っていました。「“ネットはデマばかりなので見ないように”という内容の回覧板がまわったので、見ない」「怖いことは聞きたくない」というような友人の声もありました。情報の格差が激しく、それが危機感の差となったのです。

経済優先?

 私は1番に優先したいものは命と健康でした。特に子どもにはリスクが3倍以上ともいわれています。アメリカが80キロ以上退避と言ったのには、それだけの理由があるのだと思っていたし、家も仕事も、元気であればまたなんとでもなると思っていました。悲しいことに、放射能は人間がいくらがんばってもどうしようもないもので逃げるしかない、郡山に戻るという選択肢は、私や子どもたちにもありませんでした。迷いなく、避難生活をすることになりました。

 郡山市は政府が制定する避難区域ではありません。何の補償もなく自主避難者という扱いです。しかし実際はものすごい高線量の場所だらけで、当初外で活動するのは3時間以内、窓が開けられない、洗濯も外に干せない、我が家の芝生の上は毎時5μシーベルトでしたし、近所は10を超えるところもありました。そこで生活するのは憲法にある「健康で文化的な暮らしを保障する」といえる生活なのだろうか?

ごっちゃに論じてしまう

 風評被害という言葉をいち早くマスコミは使いました。福島県では県庁の会議で「風評被害でいきましょう」と決定したという話があります。これは、どのような状況に対しても、風評被害という言葉をとにかく使おう、ごまかそうというような事ではないでしょうか。安全かどうかしっかり確認もできていないうちから“風評”だと言い続けました。風評ではなく実害なのです。“食べて応援”も同じことでしょう。

 これを広めることで喜ぶのは補償しなくて済む東電と政府です。決して生産者ではありません。食べないと買わないとか、生産者の人がかわいそうとか、そういうことではないのです。消費者も生産者も同じ被害者です。食べない消費者が悪いわけではないのです。そこをごっちゃにして考えてしまうと、物事の本質を見誤るように思います。

 原発を語るときも、そうです。“原発がなくなると経済が…”という人もいますが、経済と人間の命と安全をごっちゃに論ずるからややこしくなるように思うのです。日本は唯一の原子爆弾の被害を受けているのに、放射能、放射線、放射性物質についての危険性をほとんど教えられて来ませんでした。付近の住民をどこにどうやって避難させ、住民の安全を第一に何をどうするのか、ということがきちんと定められていると思っていたら、とんでもない。マニュアルも何もなく、事故後どうやって隠すか、どうやってごまかすか、どうやって国民の目を逸らさせるかという事については、巧妙で狡猾に計画されていたのだなと、感じずにはいられません。

 危険だからこそ放射性漏れを防ぐ為に「5重の壁」だったにも関わらず、漏洩がわかると直ちに影響はないだとか、健康に被害が出るほどではないだとかでごまかす。じゃあ何のための5重?福島の放射能は毒じゃない?日本人は放射能に強い体質なの?おかしなことが多すぎます。テレビが報道しているから、有名な大學教授が話しているから、お医者さんが言っているからではなく、自分の頭で考え自分の身は守らないといけない、そんな世の中なのだとしみじみ思うのです。

台湾への避難

 埼玉の自由の森学園生だった娘のいた飯能市で、娘が高校卒業するまでの1年を私と娘と息子の3人で避難生活を過ごしました。そこから、このままの日本では子どもの命と未来を守るのが困難だと思ったので、台湾への避難を決めました。汚染されていない食品や水を手に入れるのも苦労しますが、私が何よりも絶望に近いものを感じたのは、学校が放射能について被曝について黙ってしまった事です。学校、保育園、幼稚園、子どもに関わる仕事に従事している人の声がない。確かに中には声をあげる教員もいましたがごくごく少数で、孤立して悩み苦しむ教員もいました。学校の教員などが子どもの健康や命をどうするのだ!と真っ先に被曝から守ろうとしてくれるものだと思っていたら逆に、子を心配する親を抑え、モンペア扱いする。驚くべき状況になったことに愕然としました。学校内ではすぐそこで原発が4個も爆発し放射能が漏れ続けている事に対して一切触れず、何事も無かったかのように、授業があり、なにも変わらない学校生活が流れる、小学6年生だった息子は「気持ち悪い、嘘の世界のようだ」と違和感を感じ、学校へ足がむかなくなっていました。沢山の無関心な人たち、その中に飲み込まれていきそうな恐怖感。この国からとにかく出ようと台湾に来たのです。なぜ避難したのかと聞かれれば、答えはひとつです。命を守りたい。これは、ずっと以前保育士をしていた時も、母親になってからもずっと一貫して私の信念です。

 命を守るこだわり。日本という国で過ごしていて原発事故前も感じていた事。どんどん命を守るこだわりが無くなっている社会、政治、教育の現場、それが原発事故で今、現在進行形で一段とひどくなっているように感じています。 反原発とか、原発いらん、放射能こわいよ、放射能危ないなどと言ったり、書いたりすると「勇気あるよね」と言われたり、それはタブーのように言われたりすることが未だにあります。こういうことをタブーにされてきた空気は大きな黒い利権を得ている人たちによってつくられてきたものです。危ないものを危ない、原発必要ないと言う事はそんなに勇気のいることなのだろうか?といつも思うのです。ましてやこんな事故が起きてたくさんの人が苦しみ、命が脅かされている時に何もなかったかのように黙ってやりすごしてたり、反対に、原発必要、再稼動必要と言っている人たちの方が、ある意味勇気があるなぁと思わずにはいられません。よく「仕方ないよ、死ぬ時はどうせ死ぬのだから」とか「こうなったら覚悟して今楽しく生きればいいんだよ」といかにも悟ったように、クールに言う人がいます。私はそういう刹那的な考えは大嫌いです。そんないかにも悟ったような台詞は「100万年早いわー」と後ろから飛び蹴りをかましたくなるくらいです(飛べないけど…)ましてや、いい年をした大人がそういう事を言ったらこれからの若者はどう感じるのでしょうか。自分の命を大切にできない人は他人の命も大切にできないのではないでしょうか。

 私は子どもたちに、今も楽しく生きてほしいけど未来も楽しく生きてほしいと願っています。静かに足音をたてずに黒い利権を貪るものたちは、世論を誘導し操作しています。メディアも様々ありますが、テレビや新聞などだけを、信用してはいけない世の中だと認識する必要があるように思います。終戦間近、負けているのに勝っている、大勝利をしているなどと報じていた新聞やラジオに国民の多くは騙されていました。 同じようなことを繰り返していると思うのは私だけではないはずです。過去の歴史から、あまりにも学んでいないのではないでしょうか。

  時間か経てば経つほど人間は緊張感や危機感が持続できなくなりがちです。反対に放射能は時間と共に汚染が拡大されて、国や経済界のいいようにごまかされ、事態は深刻化していきます。日常に流され、のみ込まれてしまいそうになることが恐ろしいと思うのです。原発が、放射能が、食品汚染がという話は、気分が下がるし、考えると怖くなるから聞きたくない考えたくないと思う人も多いかもしれません。しかし、現実に起こっていることを、今考えないと、自分の命も自分の大切な人も守れないのです。そして、自分の大切な未来も守れない。この原発事故の当事者でない人はひとりもいないのです。

 私はこの経験を話す事、言葉にする事、発信する事を続けていきたいと考えています。今を生きる若者にも、今を生きる母親、父親にも、おじいちゃんおばあちゃんにも考えて欲しい、知ってほしいという願いをこめて…。(了)  

筆者紹介
上前昌子(うえまえ まさこ)
1966年京都府生まれ。大阪の公立保育園で保育士として17年間勤務。夫の仕事の関係で福島県郡山市に転居。郡山市で子育て講座の講師をするかたわら安心安全な木製のおもちゃを自宅の一角で販売。
 2011年3月11日の震災、原発爆発により郡山からすぐに避難、当時小学6年生の息子を連れて、埼玉の高校に在学中の娘のいる飯能市に一旦避難し1年後、娘の高校卒業後すぐに娘と息子と3人で台湾台中市に避難。
現在、台湾で暮らしながら、今後の生き方を模索中。


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