『社会言語科学会社会言語科学会第12回大会発表論文集』pp.47-52

国家による言語政策と地方語の対応
― フィリピン,セブアノ語の事例より

 

松永稔也(大阪大学大学院言語文化研究科)

 

 


1.      はじめに

フィリピンでは,1937年にタガログ語を基礎とした国語の採用が宣言された.100以上の言語があるといわれるフィリピンでは,国語候補の選択をめぐって諸言語話者の間で活発に議論が行われてきた.その議論の経緯はこれまでに多くの研究で示されてきたが,従来のフィリピンの言語政策(史)研究では,タガログ語を中心としていかに国語が採択され,また普及のための政策がいかに行われたか,またその政策の成否の評価が中心となっている.

一方で,言語意識の分析結果を見ると,非タガログ語地域においては必ずしもタガログ語が肯定的に受け入れられているとは言いがたい.

本発表では,「地方(周辺)」の視点から言語政策の分析を行う.「地方」において今日まで続いている国語に対する否定的あるいは非肯定的態度について,歴史的経緯を追いつつ考察を試みる.本発表ではフィリピンの諸地域語の中でも話者数が多く,さらに国家の言語政策に対する反応が強く見られるセブアノ語地域をとりあげる.セブアノ語はフィリピン諸島中・南部のネグロス島,セブ島,ミンダナオ島などで話されている言語であり,近隣のヒリガイノン語,ワライ語とともにビサヤ諸語を形成している.国語の基礎言語であり首都周辺の言語でもあるタガログ語,ルソン島北部のイロカノ語とともに地域共通語として3大言語を構成している.母語話者人口は常にフィリピン人口の20%以上であり,タガログ語に次ぐ話者人口を保っている.

 

以下,2章でフィリピンにおける言語政策の歴史的経緯を概説する.3章では,国家の言語政策に対するセブアノ語話者の議論,反応が活発化した憲法制定時の議論において,セブアノ語,国語,公用語などに対してどのような言語観,意識・態度が示されてきたかを分析する.第4章では,国家の言語政策に対するセブアノ語地域の反応を扱った研究をとりあげ,その研究の傾向を分析する.

2.      国家による言語政策の概観

  フィリピンにおける言語政策は,植民地時代,独立後も含めその時代によって異なる.以下では,植民地期,独立前・後の言語政策について概要を説明する.

2.1 スペイン,アメリカ植民地時代の言語政策

 16世紀から始まったスペイン植民地時代,再三にわたり現地住民に対するスペイン語教育令が出された.しかし,政府と現地住民との仲介的立場として権益を保持していたカトリック聖職者による反発のため効果はほとんど得られなかった[1]

19世紀後半になりタガログ語地域を中心にしてナショナリズムの運動が発生する.この運動は当初スペイン国民と同等の権利を求める関係改良運動,言論運動のかたちで知識人階級主導で行われた.この活動は主にスペイン語とタガログ語で行われた.改良運動はやがて対スペイン革命運動へと移行し,運動を主導したアギナルドが1898年,独立を宣言する.革命期には1897年にビアクナバト共和国憲法,1898年にマロロス共和国憲法がアギナルド将軍を中心に採択されている.ビアクナバト憲法ではタガログ語が公用語とされ,マロロス共和国憲法ではスペイン語が公的活動および法廷での暫定的な言語として規定されている. 

米西戦争の結果アメリカがスペインに勝利し,1898年フィリピンはアメリカ領となった.1901年,アメリカ当局はフィリピン人の教育に関する政令74号により英語教育を開始した.1902年までに約一千名の英語教師をフィリピン各地に派遣しており,アメリカがフィリピン統治において教育を重視していたことがうかがえる[2]

2.2 フィリピン人による言語政策(独立前)

アメリカによる英語教育政策が進むなか,土着語による著述活動,土着語と英語,スペイン語などの併用による新聞,雑誌の発行などが行われた.現地人のなかから土着語に関する組織を設立する動きも見られた[3].アメリカ管理下のフィリピン議会において1908年には初等教育において地方語を教授用語とする議案がフィリピン議会に提出されている(Gonzalez, 1980)ほか,1920年代には土着語の使用に関する議案が相次いで提出されている(内山, 2000).

 1934年に,10年後の独立に向けた独立準備政府発足にさきがけ憲法制定議会が開催され,言語規定に関する議論も行われた.その結果,本議会ではフィリピンに存在する諸言語をもとにした国語の採択をめざす条文案が採用されたが,最終条文の段階で議論を経ぬままに変更が行われ14条3項において「土着言語のうちの一つを共通の国語の基礎として採用すべく措置を講ずる.法律で別段の定めをするまでは英語とスペイン語が公用語として存続する」という条文が採用された.

 1935年5月に憲法は発布されM. Quezonが独立準備政府初代大統領に就任した.言語問題に大きな関心を持っていたQuezonの後押しによって独立準備政府令第184号(通称国語法)が議会を通過し,国語の候補を調査すべく国語研究所が設立された.同研究所の推薦に従い,1937年には大統領令第134号によりタガログ語が正式に国語の基礎言語に制定された.

 1939年には教育省令4号により,土着の言語を教育の補助言語として使用することが命じられた.1940年には教育省1号により同年6月から中等学校第4学年および師範学校第2学年において教科として国語が導入され,また同年,大統領令263号によりタガログ語の文法書およびタガログ語英語辞典が出版された.

 1942年より始まった日本軍政時代には,タガログ語を国語として使用すること,タガログ語および日本語の教育が命じられた.

2.3 独立後の言語政策

 1946年にフィリピンは独立を果たした.

 1950年代は各地域で,母語による教育の実験が行われ,英語,国語による教育にくらべて高い成果を示した.1957年には初等第1,2学年に教授用語として,第3,4学年に補助言語として土着語が採用された.

 1959年,教育省令7号により国語の名称が「ピリピノ語」に改められた.

 1971年,憲法制定議会が召集され,1973年憲法では第15条3項において「この憲法は英語とピリピノ語によって発布される.五万人以上の話者人口を持つ言語(dialect)およびスペイン語,アラビア語に翻訳される.議論の生じた場合英語を参照する」「議会はフィリピノ語として知られる国語の発展と公式の採択に向けて手段を講じる」「法による別段の定めがあるまで英語とピリピノ語を公用語とする」と定められた.

 1974年,教育省令25号によりピリピノ語と英語による二言語併用教育政策が発表された.この政策ではピリピノ語は,社会学及び社会科学,人格教育,職業技能教育,保健体育の分野で,英語は化学,数学,技術の分野で小学校から高等学校までを通じて教授用語として使われることになった.

1986年のピープル・パワー革命後の1987年,新しい憲法が制定された.第14条6項おいて国語の名称がピリピノ語からフィリピノ語に変更され「現存するフィリピンとその他の言語によって発展し,豊かになるべき」国語となった.また同時に英語とフィリピノ語が公用語となり,各地方語は,補助的な公用語,教授用語として用いられることになった(同7項).同年,教育省令52号として英語とフィリピノ語の二言語併用教育政策の継続を発表した.

 

 以上,フィリピンの言語政策を駆け足で概観した.強調すべき点は,国語の名称が,タガログ語からピリピノ語,そしてフィリピノ語へと変化したこと,3度の憲法制定議会の流れのなかで国語が単一言語指向から多言語指向へと移ってきていること,国語,英語,地方語の教育における扱いが時期によって異なることなどである.

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3.      セブアノ語話者の反応

本章では,セブアノ語話者による国家の言語政策に対する反応について述べる.以下で言語議論が活発化した憲法制定議会の時期(1934年,1971年,1986年)および1988年の大統領令335号をめぐる議論を分析する.

3.1 1935年憲法をめぐる反応[4]

 セブアノ語地域では,Visente Sottoらが1902年Academia de la Lengua Bisayaを設立し,またセブアノ語による新聞を発行し,それらの紙面でセブアノ語に関する考察を行っている(Mojares, 1975; 1977).こうしたなか,国家による本格的な言語政策の開始といえる1934 - 35年の憲法制定議会において,セブアノ語話者も自らの言語に関する主張を行った.

この議会の言語議論においては,土着の一言語を国語・公用語とするか,複数の土着語の並立・融合を目指すかで意見が分かれた.一言語の主張における言語とはタガログ語であった.このタガログ語推進の動きはタガログ語地域出身者だけではなく他の言語地域の出身者にも支持されていたが,反発も強かった.セブアノ語地域の議員は,セブアノ語の使用地域の広さ,話者人口の多さおよび,ビサヤ諸語の融和性について言及し出身地域の言語の優位を主張した.しかし,セブアノ語地域の議員達にはセブアノ語単独で国語を成立させる意図はなく,もっぱらフィリピン諸語の融合を意図していた.

これらの議員の主張は,タガログ語の単一言語主義的な主張に対する対抗言説として行われていたと言える.

 本議会では諸言語を融合する条文が採択されたが,2章で述べたように,結果的には一言語を意図する条文が公布されることになった.このことが,長く続く言語議論の原因となっていると言える.

3.2 1973憲法をめぐる反応[5]

 1971年の憲法制定議会では,言語議論の参考とすべく各地で公聴会が開かれた.

マニラで行われた公聴会では,1935年憲法で複数の言語からの国語制定が単一の言語へと改ざんされたことをふまえ,国語問題の再検討が求められた.新たな国語の候補として各言語の融合が求められたが,これに対してタガログ語肯定派からは言語の融合という人工的な行為が成功しないこと,国語の普及にすでに費やされた労力などが主張された.セブアノ語地域出身の参加議員からは語彙の豊富さ,接辞の種類の豊富さ,非母語話者も含めた話者人口,などの点でセブアノ語が現行のタガログ語よりもまさっていることが述べられた.

 公聴会はセブでも行われた.参加した議員の多くは「すべての人々が理解しうる国語の採択」には賛成しているが,ビサヤ地域住民のほとんどはタガログ語を使用しないことを理由に,国語をタガログ語もしくはピリピノ語とすることには反対している (The Freeman, 1971).

 公聴会の参加者であり,タガログ語擁護論者であったF. Morelosによると,この公聴会における議論は以下のように分類できる(Morelos, 1972).

1.     英語を国語とする.セブアノ語を補助言語として使用する

2.     イロカノ語,セブアノ語,タガログ語をベースとした複数言語による国語

3.     一言語を基礎とし,他の言語からの語彙を統合する.英語は中等教育と大学で教科として使用する

 セブアノ語地域の議員は,セブアノ語,ワライ語,ヒリガイノン語は互いに認知可能であり,仮に国語選択が公平であるならタガログ語よりセブアノ語の方がふさわしいと主張した.また,この議会の代議員の52%がビサヤ諸語の地域出身であることも指摘された.また以下のような理由でピリピノ語は国家の分裂を招きかねないと指摘された.

1.     地域への感情的なプライドはそれぞれの地域の土着の方言や言語を国語とする主張につながる

2.     非タガログ語話者は自らの言語がタガログ語より下位であり,そのため自らが見下された二流の市民であると感じる

3.     ピリピノ語は誤ったナショナリズムの結果であり,実際のところそれはタガログ語地域を代表するという地域主義にすぎない

4.     ピリピノ語は大多数のフィリピン人によって話されていない.ビサヤ語はタガログ語より多くの話者を持つ.タガログ語の20のアルファベットはその他の言語の32のアルファベットに見合わず,これからのフィリピン人にふさわしいものとはいえない.

草案においては,「外国語も排除することなく,諸言語,諸方言を基礎とした(フィリピノ語)」という条文があったが,最終案では削除され,1973年憲法では第15条3項において「議会はフィリピノ語として知られる国語の発展と公式の採択に向けて手段を講じる」と定められた.この議会においてもフィリピン諸語の融合は明文化されなかったことになる.

3.3 1986憲法制定議会

1986年の憲法制定議会においては,以下のような議論が行われた.

?     スペイン語をいかに扱うか

?     英語の国際語としての地位について

?     国語の名称をFilipinoとするかPilipinoとするか

?     地方語の教育の補助言語としての扱いについて

?     どの言語による憲法記述を優先させるか

本憲法においてようやく1935年憲法以来1973年憲法を経てなお希求されてきた「フィリピンの諸言語を融合したフィリピノ語という国語」という理念が明記された.

3.4 セブ州議会による国家の言語政策への反応

 少なくとも条文上は多言語的といえる1987年憲法制定直後の1988年,C. Aquino大統領は,すべての政府機関の業務通達,通信において,フィリピノ語を使用する大統領令335号を発令した.この命令は,1987年憲法における言語規定に謳われている「コミュニケーションと教育のために定められたフィリピンの公用語はフィリピノ語である」との条文に基づき施行された.具体的には,1)地方,国家問わずすべての事務所における業務通達,通信におけるフィリピノ語の使用,2)事務所,建物などの名称のフィリピノ語化3)公職宣誓のフィリピノ語化4)職員向けフィリピノ語トレーニングプログラムの実施,などが謳われた.

 

 このような動きを受け,セブ州議会では1989年にタガログ語使用の禁止令,1995年にはフィリピノ語に代わる英語の使用令が出された.

1989年のタガログ語禁止条例では,1)セブ州における公用語は司法も含めて,英語および/もしくはセブアノ語とする,2)タガログ語もしくはタガログ語に基礎をおく言語の教授用語としての使用の禁止,3)意味のあるナショナリズムのために,フィリピン国歌はセブアノ語で歌うこと,4)タガログ語の教科書を英語のものに変更すべく努力すること,5)セブアノ語への翻訳業務などを遂行する委員会を組織すること,などが定められた.

この条例案が提出された理由として,国語は現在のところ発展途上であり今後さらに発展していくものであると憲法において明記されていること,フィリピン議会はフィリピノ語の使用に対して明白な決定をしていないこと,大統領令335号の法的正当性への疑問,タガログ語をフィリピノ語として押し通すことは明らかにフィリピン人に対する詐欺行為であり憲法条文に対する裏切りであること,などが記されている.

 ここでは,本来,フィリピン諸語およびその他の言語(外国語)によって発展すべきはずの国語が,実際のところタガログ語にすぎない,という見方が示されている.こうした「フィリピノ語のふりをしたタガログ語(Tagalog masquerading as Filipino)」(Philippines Free Press, 1990)に代わる言語として,英語とともにセブアノ語が対等の位置づけで指定されている点が,これまでの反タガログ語=英語支持,という一般的な態度からは一線を画している.さらに踏み込んで,国歌のセブアノ語への翻訳,セブアノ語による業務遂行のための委員会の組織化,英語版教科書への置き換えなど,具体案が示されている点も,これまでの反タガログ語の動きとは異なる点である.

 続いて1995年条例では,タガログ語は諸言語の一つにすぎないにもかかわらず教科書において採用されていること,国家試験においてセブアノ語話者が低い得点率に甘んじていること,(教科科目としての)フィリピノ語以外のあらゆる教科において英語を使用することをセブ州議会が推奨していることなどを指摘し,セブ州内の学校において教授用語として英語を使用することを要求している.セブアノ語は,特に初等の学年における教育の補助言語として指定されている.1989年の条例と異なり,この条例では委員会によって罰則規定を設定することも定められている.

 この条例では,英語を,国際的な伝達言語や共通語,労働市場の競争力との関連,先進国の科学技術へのアクセスのための言語と位置づけている.

1988年11月7日付けのManila Bulletinでは,国会議員の意見として,特にセブアノ語地域住民が「タガログによる文化帝国主義の幻影」を1935年以来持ち続けていること,憲法の言語規定は国語,英語,地方語による三言語併用政策を意図していること,議会にゆだねられているはずの言語政策が大統領の独断で行われていることを指摘し,セブ地域の反発に一定の理解を示している.

 

なおこれらの条例は,1998年,当時のEstrada大統領の要請を受け1999年に廃止された.

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4.      アカデミズムによるセブアノ地域の捉え方

 マクロ社会言語学的な視点からタガログ語以外のフィリピンの言語に言及する場合,non-Tagalogs,vernaculars,dialectsなど「その他の言語」という文脈を経たうえで個別の言語があげられることが多い.このことはタガログ語という「中心」が成立し機能することではじめてその他のフィリピン諸言語が「その他(大勢)」として周辺化して言説のなかに現われるという傾向を示している.

 このような周辺化のなかでも,セブアノ語はタガログ語への対抗馬的な扱いを受けることが多い.前章で見たように,セブアノ語地域は歴史的にもタガログ語に対抗する態度を明らかに示してきたことが要因といえるだろう.

以下では周辺化を免れ比較的主題的に扱われているセブアノ語に関する論考をいくつかあげ,テキスト内容の説明を行うとともに,これら諸テキストをめぐるコンテクストについても考えてみたい.

4.1 諸論文の内容

1.     Silliman1976)では,セブアノ語とともにビサヤ諸語を形成する言語の一つであるヒリガイノン(イロンゴ語)語地域の住民のうち特にエリートとされる人々を対象にインタビュー調査を実施し,英語,国語,地域語に対する言語意識を実証的に分析している.

2.     Benton (1996, 1980)は,二言語併用政策がエリートと大衆という社会的差異を生み出すとしている.1930年代の国語制定以降,言語学者がスペイン語,英語,タガログ語以外のフィリピン諸語は単に方言に過ぎないという神話を無意識のうちに育んだ可能性を指摘している.ピリピノ語も含みフィリピン諸語の特別な価値とはそれが大衆の言語だということであり母語教育の重要性は明らかであるとした上で土着語,ピリピノ語,英語の三言語に拠る教育を推奨している.
言語学者,教育者の社会変化への影響力を批判的に考慮する姿勢を持っている

3.     Yabes1981)では言語政策と社会的上昇の機会の平等性について言及している.自らの体験をふまえ,一部のエリートの過度の国語ナショナリズムが,その他の言語話者に抑圧状況を強いることを論じている.言語政策は決してマイノリティ集団の抑圧や基本的権利の削減に関与してはならないと結論している.

4.     Smolicz1984)では,植民者言語と土着の少数言語との教育的地位を比較しながらフィリピンの国語政策を論じている.自らの言語の蔑視がやがて国語政策への攻撃に転化する前にタガログ・オンリーの政策を転換し,教育にフィリピン諸語を再導入し文語としての発展を援助すべきだと提言している.

5.     Gonzalez(1991)は,セブアノ語地域とタガログ語地域の言語的および社会的ライバル関係について記述している.両地域は政治指導者の出身地としてもライバルであること,中央政府に対するセブの財政的貢献がセブの発展に寄与していないことなど言語的対立との関連要因を示している.
セブアノ語話者は国語を認めていないわけではなく単一言語指向と排外的態度に抵抗していることが述べられている.

6.     Smolicz and Nical(1997)では,一言語=一国家というヨーロッパ的な価値観がフィリピンの言語政策にも見られることを指摘している.ワライ語,セブアノ語,イロカノ語話者に対する言語意識の調査を実施し,言語政策と言語状況の実体の比較を行っている.

7.     Espiritu1999)は1988年の大統領令335号の発令に対するセブアノ語地域の「反乱」をふまえて,セブアノ語話者の言語意識について考察している.
セブアノ語話者の英語能力の希求,セブアノ語の国語発展への寄与,セブアノ語話者の抵抗は国語に対してではなく,地域の諸言語を無視する態度にあることなどを記述している.

8.     Barcenas2000)は1988年以降のセブアノ語地域の言語政策の経過について記述している.この論考は,セブ島で行われた一連の政策的対応を最も詳述している.特筆すべきは,著者はセブ出身のフィリピノ語擁護論者であり,本論文がフィリピノ語を普及を目的とする雑誌上で,フィリピノ語で記述されていることである.そのためかどうか,セブ島での諸政策は終息しフィリピノ語受容に向かいつつあるという結論が示されている.

9.     Sibayan1985; 1986)

10.                                    Hall(1991)など

 こうしてみると,論考は決して少なくないように見えるが,言語政策研究全体から言うと地方語を主題的にとりあげた論考は多いとは言えない[6].その理由を以下で述べる.

4.2 各論文をめぐるコンテクスト

まず,これらの論考の多くが,フィリピン国外を拠点とする研究者によって発表されている点(1,2,4,6,10),論考の発表媒体も国外のものが多くを占めている点(1,4,5,6,9[7],10)である.

また,上記の諸論文をみると,お互いの論考を引用する,参考文献としてあげるということがほとんどなされていない.もちろんいくつかの論文で共通の参考文献が見られる場合はあるが,そうした参考文献は地方語を主題としたものではない.

これらのことは,現実の地方語話者の活動と異なり,フィリピン国内の学問の場面では地方語に関する議論があまり盛り上がりを見せていないことを示している.

フィリピン国内で研究活動を行う研究者の論考においては,8に見られるように,国家による言語政策を批判する傾向は弱く,どちらかというと事実追認的な論述が目立つ.5の著者であるAndrew Gonzalezはフィリピンの言語政策研究の第一人者の一人であり,言語政策についての多くの論考がある.しかし地方語を主題的に扱った研究はほとんどなくこの論考が唯一といっても良い.その論考も海外での出版である.実は彼は研究者であると同時に,教育省長官の経験も持っている.フィリピン国内の研究者のなかには,政治的立場と研究(対象)と研究態度とが密接に結びついている者もいるのである.

3においてYabesは大学のピリピノ語コースにおける非タガログ語話者の雇用数に注意を促し,これらのコースがタガログ語話者のための排他的な組織となっている可能性を示唆している.また,学部長時代,大学においてフィリピン諸語の研究に力を入れていたことで,タガログ語擁護論者の団体から辞任要求が出されたことも記されている.

この指摘も同様に,非タガログ語とその話者に対する擁護の言説が国語追認的な言及にくらべて決して多くないことの一つの要因と考えられるのではないか.フィリピンの学術機関においてフィリピン人が研究者としての地位を確保するために,タガログ語の知識とともにタガログ語に対する肯定的な態度が暗に求められている可能性はないだろうか?

仮にそうだとしたら,言語的多様性を肯定的にとらえた研究や政策が展開される可能性が失われることになる.また少数言語の現実の社会との関係,その他の諸言語との関係のあり方に対する関心も同様に失われることになりかねない.

もちろん,地方語を擁護する余り,過度に過激になることは避けるべきであろう.しかし,幾人かの論者が示すように,国語普及政策がその他の言語の抑圧の上に成り立っていて,その「事実」を認識していたとしたら,果たしてどのような態度がとりうるのか?こうしたことを考える際にフィリピンの例は示唆的と言えるのではないだろうか.

5.      むすび

本発表では国家による言語政策とそれに対するセブアノ語地域の反応について論じ,さらにこれらの現象を捉える研究の持つ位置づけについて論じた.

最後に今後の課題を二点挙げる.一つは第4章で述べた研究および研究者の位置に関する推論の実証的な調査である.もうひとつは,国家,地域の二つの言語政策とそれにまつわる現象の中で,地方語の話者が実際にはどのような言語意識を持ち,言語使用を行っているのかを検証することである.

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[1] 300年以上の統治にもかかわらず1870年の時点でスペイン語話者の割合は2.46%に過ぎなかった.

[2] 1939年の時点で英語話者は26.6%であった.

[3] タガログ語組織として1904Kapulungan ng Wika (Conference on Language) 1908Samahan ng MananagalogAssociation of Tagalog Users)など(Silliman, 1976Gonzalez, 1980).その他の言語地域の組織については後述.

[4] この節の記述は主に松永(2003)に拠る.

[5] この節の考察は主にYabes1973),Silliman1976)に拠る.

[6] フィリピンにおける言語調査を分析したGonzalez and Bautista (1986)において対象となった83の研究のうち,地方調査を扱ったものは30以上あるが,その半数近くが国語に関する調査である.タイトルから対象がセブアノ語であることがわかるものはわずかに2本のみである.

[7] Sibayanの二つの論考はのちにフィリピン国内で再版されている.